見出し画像

「二木先生」(夏木志朋さん)を読みました

《二木先生》


「普通」とは何か。


「普通」とは。


きっと“皆が言う「普通」”は“多数”の事なのだろうと思う。いや、たぶん逆だ。“多数”だから「普通」と呼ばれているにすぎないのだろう。そしてその“多数”は、「多くの人が周りに合わせてできあがったもの」だろうと思う。皆、“普通は何か”と問われればきっと言葉に詰まる。皆が分からないものだから、周りの様子をうかがって、チラチラ横目で見ながら、皆の行く方へ足並みを揃えていく。そしてそれらを「普通」と呼び、自分自身に安心する。そこからズレるもの、はたまたそこに合わせない者を人々は「異常」と呼びたくなる。

正直、くだらないと思う。
普通とか、普通じゃないとか。
でも、「普通」じゃない人はきっと差別されてしまうのだろう、と思う。だって人間は“みんな一緒”が大好きだから。広一も二木先生も、「くだらない」の一言で片付けられない話だからそこに悩みや諦めが生じてくるのだ。だから、くだらないと思えるのはきっと、「普通」になんなく溶け込める人の特権だ。

広一も、二木先生も、「普通」じゃなかった。
もしかしたらクラスメイトの中にも、「普通」じゃなく、Aの皮をかぶるのが上手いだけの人がいるかもしれない。
もしそれがクラスメイトの多数を上回って、その事実が周知されたら、その時はそっちが「普通」になるのだろうか。
でもきっと、「普通」じゃない人には、“みんなで足並みを揃えた同じ一つの意見”なんて存在しないのだろうから、その彼らをたった1つの枠で囲うなど、これまたできそうにもない。


昔、「わたしはひどい人間です。
どうすれば優しくなれますか。」との問いに対してのある教授の答えを見た。
彼はこう言っていた。

「————————じゃあ、生まれつき優しくないならどうすればもっと優しくなれるのか?フリをするんだ。ちょっとずつ、優しいフリをしていくんだ。なぜなら、生まれつき聖人みたいに完璧な人が誰かに優しくしようと、密かに悪魔的である事を誤魔化したい人が誰かに優しくしようと、そこに違いはないから。どっちにせよそれは親切な行為で、相手の生活をよくした事には変わりない。————————『本当に優しい人ならどうするだろう?』と考え、それを実行に移すんだ。失敗しても自分を責めないで。————————。」

優しくいられない事に悩んでいた。「優しい子」だと言われて育てられたから、自分は優しくないと価値がないと思えた。自分の腹黒さが垣間見える瞬間には、自尊心や自己愛など崩れ去っていくのだ。ずいぶん長い間悩んでいた。優しくあれない自分に。この年でダメならもう無理ではないか。自分はダメな人間だ。周りはみんな優しいのに、私は優しくなれないと。

そんな私と、広一達は、ほんの少しだけだが似ていた気がする。

優しいフリ
「普通」のフリ

お互いがお互いの皮を上手く被って生きていけますようにと、ふとこの小説を思い出しては願う。




だがしかし、小児性愛が題材になってくると、私は少し自分の考えを主張しすぎてしまう節がある。今回もそうだった。
二木が小児性愛者だと知った瞬間、たとえどんな手を使ったとしても擁護できない、と思った。しかし実はそこに関しては今も変わっていない。「犯罪に直結する欲望」である事実には危険しかないからだ。だから私は、小児性愛者の人々は皆、然るべきカウンセリングや治療を受けるべきだといつも思う。この小説前半部分は、そんな思いでいっぱいだった。二木先生への嫌悪感が止まらず、読むのをやめようかと思った。言及しておくが、嫌悪感を抱いたのは彼が小児性愛者だからという理由“だけ”ではない。その許されざる欲望を、自分を、彼が正当化しようとしているように見えたからだ。最後のシーンで生徒の口から出た「誰にも迷惑かけてないならいい」というのも、元々賛否両論ある意見ではあるだろうが、私は完全に腑に落とす事はできなかった。

でも、なぜか、
二木先生に、同情した。
不思議だった。最初は、彼がいい先生だからだと思った。いい人が周りから責められているのは、見ていて辛い。でも、いい人ならよくて悪い人ならダメな事、なんてあっていいはずがない。

きっと、私が彼に同情したのは、
彼は、自分を理解し、それ相応の対処をしていたからだと思う。周りからの理解は得られないことを知っていて、また自分の欲望が許されざるものだと認識していて、Aの皮を被り、「普通」に生きようとしていた。「普通」に生きるために多くのものを諦めていたように見えた。彼の自分の性癖との向き合い方はとても誠実だったと思う。そして、誠実でなければならなかったと思う。自分が少しでも道を踏み外せば犯罪者になる事を彼はしっかりと自覚していた。

日本は小児性愛者に甘い国だと思う。ロリコンなんて言葉があるくらいだから、それが“性的趣向”ではなく“犯罪思考”である、という事を認識できていない人が多い。しまいには、「LGBTQ+と同じじゃないか」なんて意見も時たま耳にする。それは全くの別物なのは当然として、それには本編でも言及されていたが。
二木先生はそれらを全て、理解していた。理解して、「普通」を装うために、「普通」の人が諦めなくてすむものを諦めていた。小児性愛者ではない私は、きっと彼の想いは一生理解できない。でも、自分の危険さを把握してあらゆるものを諦めて「普通」に生きようとする彼に、私は、少しは報われて欲しいと思った。せめて、彼がいろいろなものを諦めて作り上げてきた、今まで通りの「普通」の日常が戻るくらいの事はあっていいのではないかと思った。


最後まで読み終えて思った。きっと私は、この小説を批判したかったのではなく、この小説に出てきた小児性愛者を使って日本を批判したかっただけだったのだろう。


ただ、二木先生は、その批判の武器として使用するにはとても誠実すぎた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?