暮らすということ
生まれてくる前に、どんな身体、どんな家庭、どんな社会、どんな国に生まれるのか、そして、生まれた後に、どんなことを経験する可能性があるのか、そのすべての可能性を知った上で、ひとつの身体を選んで、生まれてきた。
そんな記憶がよみがえった。
僕には、生まれてくる前に、この身体を選んだ明確な目的がありました。
ちなみに、生まれてくる前というのは、まだ僕が受精卵にもなっていない頃のことです。
そして、母の卵子が父の精子を受け入れた時に、僕は、卵子内のミトコンドリアに接触する。
これが、心身体験のスタートで、本当の意味で、この世に生まれた瞬間です。
この瞬間から、僕は、靈だけの状態から、心身を司っていく靈としての時間が始まります。
こんな感じで、地球での暮らしが始まったというわけです。
ただし、これは、今回の人生の記憶ではありません。
これまでの人生の誕生のシーンを、膨大なストーリーの中に入れておいたのを、取り戻してその様子を解説してる感じなのです。
今回の人生の記憶は、そこには入れることができてません。
まぁ、そりゃそうです。
できあがってはいても、はじまってはないですから。
この身体で生きて暮らすということは、本当に特別なこと。
可能な範囲内で、あらゆる好き勝手が許される。
もちろん、自分で創った人生の可能性の全てです。
だとしても、創っただけじゃ無いのと同じなのです。
生き始めて、暮らし終えて、はじめて一生なのです。
場も身体も自分で用意して、思えた範囲の事しかできないのだけれど、その有限のストーリーの中で、どのような一生を描けるかは、やってみないと分からない。
靈が宇宙を、すべてを創れたとしても、いのちの一生は描けない。
全知全能の神であろうが、なんだろうが、けっして創れやしないのが
いのちの一生。
それがどのようなものであろうと、この宇宙を生み出した靈には、創れないものなのです。
わたしたちが、日々を暮らすということは、そういうことなのです。
さて、わたしたちは好き勝手できるがゆえに、今の地球のありさまがあるわけです。
わたしたちは、いつもいつも、目的を持って生まれてきます。
どのようないのちも「ある目的」を共有して、それを叶えられる身体で生まれてきます。
だけれども、そんな目的に関係なく、好き勝手生きられます。
とくに、わたしたちはあらゆる生き物の中で、もっとも好き勝手生きることができます。
なぜなら、この惑星に生まれるあらゆるいのちに、それを託されたから。
この惑星のいのちの世界は、太陽と共に、天の川銀河を巡りながら、この宇宙を旅している。
そうすると、いろいろなことが起こります。
いろんな出来事がある中で、この惑星を、どこまでも美しくすることを、託されたわけです。
そして、そこに感動があるわけです。
わたしたちは、いま、何のために生きているでしょうか?
Ryosuke