今の先進国はゲームの仕掛け合いをしている

僕は日本人で、日本の福岡県に暮らしています。

これは、今僕が暮らしている日本で行われてるゲームで一般的に使われているルールに則って自分の所在地を表現してます。

このゲームでは、所在地の表現にいくつかのルールがあります。

ルールはあらゆる暮らしのシーンで用意されています。
それはそれは、ほんとうに沢山のルールがひしめき合っています。

このルールを知らないで、独自ルールで行動しようとすると、様々な障壁が現れるようになっています。

同時に、日本という国は、国際社会というゲームに乗っかってゲームをすることになっているし、日本の国の中でも、様々なゲームが次々に作られて、それぞれのゲームのプレーヤー争奪戦みたいなことになってます。

ここで重要なのは、わたしはゲームを創ってる側なのか、それとも、ゲームのプレーヤーなのかです。

もちろん、今、日本で暮らしているわたしたちは、いくつものゲームが積み重なったようなゲーム世界の中で暮らしている。

つまり、誰もが何らかのゲームのプレーヤーになっているということです。

だけれども、プレーヤーがいるということは、必ずどこかに、クリエイターの存在があるということです。それは、ゲームを制御できるポジションが存在するということです。

自分を生きるということと、自分がどのゲームのプレーヤーになるのか、もしくは、ゲームのクリエイターになるのかは、とっても重要な関係があります。

なぜなら、わたしたちは、誰もが、そもそもゲームクリエイターだからです。

わたしたちが生まれてくる時に、自分専用のゲームをオーダーメイドして、生まれてくるんです。

生まれてくるということはそういう感じだと理解してみてください。

生まれてくる時、わたしたちは自分で用意したゲームにプレーヤーとして参加するのととても似ています。これはわたしたち人類だけではなく、たくさんの生き物も、おなじようなことをやってます。

いまこの地球では、靈が創り出したゲームと、生まれ出た後に心が創り出したゲームが入り混じっているのです。

靈を生きるということは、靈が創り出したゲームを生きることでもありますが、わたしたちはすでに、心が創り出したゲームを生きることに慣れすぎてしまっている。

いま、この心が創り出したゲームをプレイすることによって、靈が創り出したゲーム空間が、どんどん壊れていってるのです。そして、残念ながら、心が創り出したゲームにはまりすぎてしまうと、それが分からなくなってしまうようです。

靈を生きるということは、心が創り出したゲームから静かに離れて、あらたなゲームを創り、そのゲームのプレーヤーになるということでもあります。

Ryosuke

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