選択肢

ブックカフェやるって決めてから約半年くらい。
一応準備のようなものはしているけど、やるべきことに対して本当に全力を出しているかというと疑問が残る。(今やるべきは副業の充実だと思うけど全然一生懸命やってない。惰性で映画ブログのライティングをだらだらやってるだけ。なんとか動画編集で時給800円くらい出せるようになりたい)

巷で夢を目指して頑張っている人に比べると明らかに熱量が違うことは分っててその理由がタイトルの『選択肢』につながる。

今まで32年間生きてきて、自分の環境に関係なく本当にやりたいことに対して進んでいくという選択を取ったことがない。現状がとても貧乏だけど学びたいことがあるから一生懸命勉強して奨学金で大学に行く的な、逆境をはねのけて夢に向かっていくみたいなことをしたことがない。
大学進学も就職も岩手に来たこともすべて「自分が置かれている環境の中で自分が出来そうなことorある程度やりたそうなこと」を念頭に置いて選択してきたように思う。
そういう思考が体に染みつきすぎて、突拍子もないやりたいことが思いつかない体になっているんだと思う。どっちが鶏でどっちが卵かはわかんないけど。

最近よく考える、もう生きていくの飽きたなっていう実感も、こういう思考がベースにあって出てくる実感なんだと思う。
積極的に死にたいわけじゃないよ。念のため。普通に痛そうだし怖そうだから死ぬのは嫌だけど。あと別に振られたからそう思ったわけじゃなくて、ずっとこういう考えだった。最近言語化できたってだけ。今死んだとしても、あれやればよかった!!みたいな後悔は多分ないなということ。
今やれることを全力出してるから後悔がないんじゃなくて、はなからやりたいことがそんなにないし、この先も多分無いんだろうなというのが肌感覚でわかってるから、後悔しないと思う。
全然関係ないけど、難病の人が自殺してしまった人に対して「お前が死んだ一日は俺が行きたかった明日なんだよ」っていう、自殺はよくない的美談にさせられてる言葉があるけど(原文かどうかは知らん。ニュアンスで)これがあんまり理解できてない。明日を迎えられない人がいるんだから自分の命を粗末にしてはいけないってことだと思うんだけど、それとこれとは違う話じゃない?ってずっと思ってる。俺が「生きたい」より「死にたい」が強い人間だからかもしれないけど。当人にしかわかりえない死にたいほどの苦しみがあるということの方が、自分と地続きになっている感覚。そしてそれがはたから見れば理解できない小さなことであっても、受け止めてる大きさも当人にしかわからない。
3割くらいの確率で死んでた病気にかかった俺だから、強い意見なのは大目に見てくれ。

話の流れで言えば、このブックカフェの開業だけは今までの人生で初めて自分が本当にやりたいことをやっているんですよ!という話になるんだろうけど、実際をいうとそういうわけでもない。本当にやりたかったら別れる前にやってるだろ?という。
別れて島根に戻ることになるという「環境」に置かれて、じゃあどうするか?というところからスタートしているのでこれもある意味では「消極的」な選択だと思う。店をやるってのにそれが「消極的」な選択だっていうのはなかなか変な話だとは思う。消極的だったら普通にどっかの会社に勤めるだろ。
ブックカフェも「こんなずさんな計画出来なくてもともとだろ笑」という思いと「とりあえず絶対に開業したいからめちゃくちゃ頭使う」が同居しているというはたから見ればかなり変な心持ちではある。自分ではあんまり矛盾してないと思ってるんだけど。

長々とだらだら書いてきたけど、じゃあこの「置かれた環境で60点~70点を取れるだろう選択肢を選んでいく人生」という性格についてコンプレックスだったりを持っていて夢に向かって真っすぐ進んでいく人がうらやましいのかというと、そんなこともないのが、俺という人間のめんどくさいところ。
まぁ60点~70点の人生でも、良いとは言えないけど悪くもないし、死んでも後悔しないのも理由はどうあれ悪いことではないように思う。

まぁまぁ不幸せなそんなに幸せを感じてない人生だけど、これからも一生だらだらと65点くらいを出していければいいと思う。

体重が75kgくらいから全く落ちなくなってきた。

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