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自給力

 俺が伊豆河津に住む理由のひとつのテーマとして、"自給"がある。

 きっかけは曖昧だが、簡単に言えば今の膨張した産業社会からの離脱。便利なもの、楽しいもの、自分の欲求を満たしてくれるコンテンツに溢れている世の中だが、その一方で至る所で歪みが生まれていることは薄々感じていると思う。格差、温暖化、食糧危機、自殺、ニュースや教科書で嫌というほど耳にはするが、どれほどの人が自分ごととして捉えているのか。

 俺はみんな幸せだって胸を張って言えればどんな生き方でも構わないと思う。でも、そんな耳を塞ぎたくなることがこの世界のどこかで、もしくは自分自身に降り注いでいる中で、胸を張って幸せだ!と叫べる人間がどれほどいるだろうか。

 なんて言うとそんなの綺麗事だと一蹴する輩がいる。目の前を生活があるのに、と。その通り、だから俺は目の前の生活を変える。どうにか上手くやって、誰かに働いてもらって、自分はプールサイドでふんぞり返るなんて御免だ。

 シンプルに考えた。今日食べた食事は誰が作ってるのか。今着てる服はだれが作ってるのか。通帳に記帳されたお金は、誰の手を渡ってきたのか。生きることとは労働をすること。誰かがサボったら、誰かが贅沢したら、誰かがその分働くだけだ。

 縄文人は一日4時間しか働かなかったという話がある。現代人に腹の足しにもならない装飾ゴテゴテの土器を、数十時間かけて創り上げる金銭的精神的余裕があるだろうか。

 ただここでおかしなことがある。人はあらゆる発明をしてきた。手のひらより小さなライターを一本の指で弾けば、生きる上で欠かせない炎がいとも簡単につく。化学肥料や農薬を使えば、数倍数十倍の食べ物が育つ。昔だったら丸一日かけた山を越えた隣の村への移動も、1時間で着く。

 なのになぜ、こんなに生きるのが大変なのか。一日8時間、毎日、ときには夜遅くまで。それはどこかの誰かさんが、タワーマンションから俺らを蔑み、優雅にガウンを羽織りながら年代物のワインを啜っているのだ。そいつらのために、身も心もすり減らして働いてるんだ。

 もちろん、それでいい人間もいる。仕組まれたシステムの中で、都合のいいものしか見えないメガネをかけて、与えられた幸せに満足する。それでいいならいい。ただ忘れてはならないのは、俺らでさえ搾取する側でもあるということ。それを受け入れた上で今を生きれるなら、そんな楽なことはないかもしれない。

 とかく、俺はただただ、わがままだ。人のために何かをしてあげたいと思うのは、結局自分がその方が幸せだからだと思う。みんな幸せだったらそれでいい。ただ、その和を少しずつ広げていってほしい。家族、パートナー、友人、たまには近所の人、電車で隣の席に座った人、コンビニの店員さん。自分がもの凄く幸せなら、少し溢れた分を分けてあげたい。

 支離滅裂になってしまった。もう少しまとめたい。

 足るを知る。みんなで幸せに生きるには、まずそこからだ。

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