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ブラジャーが臭い

35を過ぎたあたりから、1日装着した自分のブラジャーのにほひが気になるようになってきた。
使い古されたリソグラフ印刷機の排気のようなかほりがする。
もしかしたら夢かもしれないと思い、夫にも嗅いでもらったが、やはり「臭い」と言う。
一度は惚れてことあるごとに「可愛い」と言っていた妻である。正直うざったいくらいの頻度で、彼はわたしのことを「可愛い」と言っていた。当時の彼は語彙力が完全に崩壊していた。
そんな妻のブラジャーのカップに鼻を近づけて顔をしかめる夫の姿に、諸行無常を実感する。
少女老い易くブラ臭く成りがち。

いつしか夫の枕も臭くなっていた。
いにしえの歌にあるように、(わたしよりは)少し背の高い夫の耳におでこを寄せようものなら、あの枕と同じにほひがするに違いない。
パグ姉妹の、特に黒い方は夫の耳の後ろが大好きで、うつ伏せで彼がスマホをいじっていると、背中に飛び乗り飽きることなく耳の後ろのにほひを嗅いでいる。犬は臭いものが大好きだ。
甘い匂いに誘われたカブトムシならぬ、加齢臭に誘われたパグ犬である。
たまに舐めようとするので「病気になるよ!」と静止するが、間に合わない時もある。パグ姉妹が病気になったら夫のせいだと思う。
出会ってから20年、夫と同じだけわたしも年齢を重ねている。
わたしのブラジャーが臭くならない道理がないのだ。
加齢を止めることはできないが、にほひをどうにかすることは急務である。
Google先生に相談したところ、ブラジャーが香るのは洗濯で皮脂汚れや汗が落ちきっていないからだと言われた。加齢臭と言われず、ちょっとだけ安心した。
皮脂汚れといえば酸性。アルカリで殴れば倒せるはずだ。
わたしは早速、仕事帰りにセスキ炭酸ソーダを購入した。

セスキ炭酸ソーダは魔法の粉だと思う。
たいていのものは、この水溶液につけ込んでおけばどうにかなる。
中学、高校のころの制服のブラウスの襟や袖口の汚れも、これでリセットしてきた。
頼むよ、セスキ。キミには全幅の信頼を置いている。
わたしは試しにその日装着していたブラジャーとパンツ、ヒートテックババシャツをセスキ水溶液につけおきし、床についた。

翌朝、わたしはつけおきの洗濯おけをのぞいて驚愕した。そしてひいた。
昨夜は無色透明だったセスキ水溶液が、一晩にして黄色く濁っているではないか。
ブラジャー、パンツ、ババシャツはわたしの体表面から分泌される何かしらのエキスをこんなにも吸い取っていたのだ。そりゃ臭くもなる。

誤解してほしくないのだが、ブラジャーとパンツはこれまでも毎日ランジェリー用洗剤でつけ置き洗いをしてきた。
入浴前につけ置きをし、風呂上がりにすすいで脱水、干すというのがルーティンだった。
断じて、面倒くさがって溜め込んでいたり、洗わずに何日も装着し続けていたりしたわけではない。これだけは信じてほしい。
それなのに、このいかにもにほひそうな色と濁りよう。
パグ姉妹の服を犬服用洗剤でつけ置きしていた時と同じ水の色である。
適当でズボラ、だらしないように見せかけてその実、洗剤を用途別に揃え、必要なものはきちんと手洗いするのがわたし、めぐみティコなのだ。
それ以外の部分は適当でズボラでだらしなくしていることは否定しない。
そしてわたしは実はパグだったのかもしれない。
なんのはな

まだ終わらない。時を戻そう。

それなのに、このいかにもにほひそうな色と濁りよう。
パグ姉妹の服を犬服用洗剤でつけ置きした時と同じ水の色である。
ランジェリー用洗剤とは、一体何の汚れを落としていたのだろう。
ちなみにわたしの愛用しているランジェリー用洗剤の用途として、血液汚れを落とすという効果はない。意味がわからない人はお母さんに聞いてね。
ジャスミンの良い香りをつけるだけのはたらきしかしていなかったのだろうか。
500mLで2420円もする洗剤なのに、たっぷり500g、セスキスプレー100本分入っていて400円もしない激落ちくんのセスキに負けている。
ジャスミンの香りしか勝てるポイントがない。

かくしてわたしのブラジャーとパンツ、ババシャツがパグ姉妹の服と同じくらい汚いことがわかってから、わたしは毎日下着類をセスキ責めすることにした。
最初はひいてしまった黄色く濁ったセスキ水溶液も、何日も続けて見ているとだんだん快感となってくる。
こんなに蓄積していた何かしらのエキス、そしてそのエキスを原因として香ってくるリソグラフの排気、それらすべてに人類の叡智が打ち勝ったような高揚感を覚えた。
やがて、わたしの十数組あるブラジャーとパンツ、すべてのセスキ責めが完了し、何かしらのエキスとの戦いはわたし側陣営の完全勝利という結果で幕を閉じた。
カップの内側からリソグラフを感じることは、もうない。
わたしは勝利の証に、セスキ水溶液をすすぐ時にランジェリー用洗剤改めジャスミン香り液を入れることにした。

しかしわたしは、だんだん平和な日々に飽くようになってきた。
一瞬、毎晩のセスキ責めをやめて1ヶ月ほどジャスミン香り液だけでつけおきするスタイルに戻そうかと思ったが、本末転倒な気がした。
そもそも、セスキは強い薬剤なので、繊細なランジェリーをつけ置きする用途には使えないという話もある。
レースや生地が傷むという話も聞いたことがあるが、今のところ何かしらの不具合は生じていない。

完全勝利を収めても、わたしは未だ毎晩のセスキ責めをやめられないでいる。
翌朝の洗濯おけの中は、もう黄色く濁ってはいない。
でも時折、あのいかにもにほひそうな色が見たいと思う時がある。勝利の感覚が恋しくなる。「今宵の虎徹は血に飢えている」という感覚がわかってしまう自分がいる。
夫のボクサーパンティをこっそりセスキ責めにしようか、思い悩む今日このごろなのである。