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車に轢かれたことがある。

こんばんは!
みんなは車にひかれたことってあるかな?
もちろんあるよね!  え?  ない?  ま、そんなことはどうでもいいか。
ここで大切なのは、ティコはひかれたこと、あるよ!  ってこと。
今日はそのはなしをしようと思うんだ。
ティコのはなしをよくきいて、みんなは車にひかれない安全な毎日を送ろうね!

いつきさん みのむしさん このたびも
おせわになります ありがとうです(字足らず)

今振り返っても何が原因でそうなったのか分からないのだけど、あの日は確かにわたし、車に轢かれていた。

あの頃の北海道にはまだ梅雨はなくて、そのかわりじわじわと夏がわたしの上に覆い被さってきているような、そんな季節。

朝の出がけに「寒いから着なさい」と母に呼び止められて無理やり羽織らされた、全く趣味じゃない綿レースの白いブルゾンは、昼下がりの下校時にはもはや無用の長物となってわたしの腰に巻かれていた。その分だけ腰回りに布地が重なるのだから余計に暑くなりそうなものだけど、小学校一年生の頭ではそこまでは考えられなかった。ランドセルを背負う背中に汗が滲み、Tシャツがへばりつくのが分かった。

その日、わたしは同じクラスのあゆみと一緒に歩いていた。あゆみは小学校に入学して知り合った友達だ。

わたしの通っていた小学校は、大きく分けて3つの勢力から成っている。ひとつは、わたしが卒園した幼稚園の勢力。もうひとつは、小学校の最寄りの仏教系幼稚園の勢力。そして地域唯一の保育園の勢力だ。

あゆみはどこの勢力にも所属していなかった。幼稚園や保育園に通っていなかったという。

そのせいかどことなく浮世離れした雰囲気があり、いつも黄色っぽい鼻水を垂らしていた。その鼻水を袖口で拭くか、半袖の季節になった今は垂らすままにしておいて唇に到達した時点で舐めてしまうかなので、彼女は入学後二ヶ月目にして早くもクラスメイトから避けられていた。

でも、わたしはあゆみと一緒にいることを選んだ。

何をさせても鈍臭くて鬼ごっこをすれば永遠に鬼の身分から脱することができず、ブランコをこげば頭から落っこちるようなわたしは、男子からいじめられがちだったのだけど、体の大きなあゆみが鼻水を垂らしながら「コラー!」と言って追い払ってくれるので、とても助かっていたのだ。

あゆみはあゆみでわたしという人生初の友を得て嬉しかったのだと思う。小学校一年生の一学期にして、わたしたちはイソギンチャクとクマノミのような共生関係を築いていた。

わたしたちが通っていた小学校は、駅や公園、図書館など地域の主要な機能から遠く切り離されて畑の中にぽつん、と建っていた。だから大抵の子どもたちは、毎日長い距離を歩いて通学することになる。

わたしも片道二キロの道のりを、毎日三十分かけて通っていた。三十分の間には、踏切やアンダーパス、奥が見通せないほどに生い茂った薮、それなりに交通量のあるバイパス道路などがあった。体の小さな一年生とはいえ、この道も毎日歩いているとさすがに慣れてくる。春に感じていた疲労や苦痛は、5月の半ばにはいくらか軽くなっていた。

それでも、この日のように、体がまだ夏に馴染んでいない時期は別。頭がぼんやりとして、周囲への感受性も極端に低くなる。

だから、だったのかもしれない。

わたしは気がつけば、横断歩道の縞模様の上に倒れ、普段では絶対にあり得ない角度から鼻水に汚れたあゆみの顔を、そして少し行ったところできゅっ、と停まった白い軽トラを見ていた。横断歩道の向こうに広がる藪の緑がまぶしかった。

それからのことは、あまり詳しくは覚えていない。
わたしを轢いたであろう軽トラの運転手は、わたしが生きていること、意識があることを確認して「大丈夫だね」と言って急いでどこかへ行ってしまった。わたしは車から降りてきた運転手に大丈夫だから構わないで、というようなニュアンスのことを言ったような気がする。

わたしが轢かれた交差点の脇にあった薮は、今はセブンイレブンになっている。当時既にセブンイレブンがあったのなら、少しは違っただろうか。

大丈夫だから構わないで、の反応を返した時、真っ先に思ったのは、
「お母さんに怒られる」
ということだった。わたしの母は、わたしが膝を擦りむいたと言っては鈍臭いからだと文句を言い、家族でのお出かけ前に吐き捨てられていたガムを踏んで靴底を汚したと怒ってはわたしだけ自宅の駐車場に置いていくような人だった。

怪我はさいわい軽かったようで、ひょこひょこしてはいたが、立ち上がって歩くことができた。

左脚の外側側面の、キュロットスカートから出ていた部分をすべてすりむき、血がにじんでいる。腰に巻いていた白いブルゾンは、灰色っぽく汚れていた。

怪我をしてしまった。しかも、車に轢かれて。お前が悪い、ってまた怒られる。

そう思うと、喉の奥に熱い塊がせり上がってきて、鼻の奥がつんと痛くなった。

あゆみがわたしの腕をとり、体を支えてくれた。ぎりぎりまで耐えていた涙腺のダムが決壊し、そして今更になって左脚の激痛に気が付き、わたしはわんわん泣いた。

家まではふだんならあと十分ほど。一年生がけが人を抱えて歩いているのだ。その道のりは、踏切待ちの時間も相まってとてつもなく長く感じられた。

その後、あゆみはわたしが当時住んでいた団地の3階まで付き添ってくれ、泣きじゃくるわたしに代わって母に事情を説明した。話を聞いた母は「ありがとう」と言ってにこやかにあゆみを送り出したが、鉄製の玄関のドアを閉めると
「今はなんでもないかもしれないけど、夜中に急に具合悪くなって死ぬかもね?  どうすんの、あんた」
と無表情で言った。これまで聞いたことがないほど、冷たく重い響きだった。

その夜、わたしはなかなか寝付けなかった。

擦りむいた左脚が熱をもってじんじんとしていたこともあるが、昼間に母に言われた言葉が脳みそにこびりついて離れず、眠ってしまったらもう目が覚めないような気がしていた。隣で寝息を立てている妹の指先を布団の中で触りながら、明日の朝が早く来ますように、とただそれだけを祈っていた。

隣の部屋では、弟と母が寝ていて、父は居間でゲームをしている。

団地は、家族5人がそれぞれ何をしているのか、どこにいても分かるほど狭かった。

お父さんのところに行って、一緒に寝てって言おうかな。

そんなことを考え始めた時、わたしと妹が寝ている部屋のドアが開いた。気配でわかる。母だ。

寝ていないことがバレたら怒られる。

わたしはぼんやりとした暗闇を見つめていた目を閉じ、意識的に呼吸の速度を落とす。

母はわたしの布団の横に座ったらしい。安らかに聞こえるよう演じている寝息とは裏腹に、何を言われるんだろう、何をされるんだろうという不安で心臓が大きく波打つ。心音で起きているのが悟られてしまうのではないかと、気が気ではない。枕に押し付けた耳に、体の中からどくどくと音が響いていた。

母が体を動かすような静かな気配があり、わたしの頭に遠慮がちに触れる指先を感じた。こわれものに触るかのように、こわごわとわたしの髪の毛を撫でている、母の指。

大音量の心音の向こうから、鼻をすするような音と、高く細い、押し殺したような声が聞こえる。その声は震えていた。

お母さん、泣いてる。

そのことに気がついたら、わたしの心臓はもううるさく騒いだりしなかった。少しづつとくん、とくん、と速度を落とし、わたしはいつの間にか眠っていた。

六月になると、この日のことを思い出す。今となっては母のあの冷たい言葉の意味も、涙の意味も分からないけれど、不器用な人だと思う。

あゆみとは3年生で別々のクラスになってから、共生関係は解消された。ほとんど話すこともなくなり、中学校卒業後は会っていないし連絡もとっていない。十年前にFacebookで見つけた彼女は赤ちゃんを抱いていた。鼻水はもう出ていなかった。

そしてかつての事故現場だったセブンイレブンで今、わたしは毎朝コーヒーを買っている。

あの、わたし 毎日なんの はなしかが
わからない記事 書いてます
回収の手間 増やしてごめん(長歌)


☔️この記事は路地裏からお届けするクロサキナオさんの企画参加記事です☔️
#クロサキナオの2024JuneJaunt