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ヤマハラ

世の中の男性と括られるカテゴリの人々の中には、どうも某ラーメン店の信奉者が数多潜んでいる気がする。
わたしの身近で言えば、夫を筆頭として弟、同僚の数名がCMソング通り「癖になる味」の虜になっている。

一方で、女性の方はというと、「臭すぎて無理」と評価は芳しくないようである。
わたしも店の前を通りかかるだけで気分が滅入り、入ってみようという気分にならない。

ここまで男性と女性で評価の分かれるものというのも珍しいのではないだろうか。
夫と弟がわたしの実家などで顔を合わせると、結構な頻度で「麻薬が入っている」と評される(もちろん比喩表現である)そのラーメンについて熱く語り合っている。
コロナ禍前の飲み会では、2次会の終わった後「ラーメン食べに行こう」というお決まりの流れになったのだが、男性陣が「狸小路にあの店がある」と赤い看板に白い屋号を掲げたそのラーメン店を挙げると、女性陣が一斉に「無理」「この時間にそれはダメだわ」とブーイング。
そのまま解散となり、女性だけで3軒目のカフェバーに流れたこともあった。
わたしは席についてすぐにカフェオレとカタラーナを頼み、軽食をつまみながら喋り、結局シメにレギュラーサイズのパフェを食べたので、どちらが罪深いかは再考の余地がある。

わたしの夫も弟も、結婚前は自由にそのラーメン店に行き、気ままに麻薬入りラーメンを堪能していたという。
しかし今は、奥さんがいるので行けない、ついてきてくれないし提案しても却下されると勝手な言い分で嘆いている。
義妹はこれまで弟の誘いを頑なに断り続け、未だ「癖になる味」処女を守っているという。素晴らしい貞操観念だ。

わたしはというと、結構ゆるゆるな方なので、一度夫の「お願い! 一回でいいから! 本当に1回行ってくれたらこれで最後にするから!」と別れ際になって「最後に1回抱かせて」と懇願する男のような口説き文句でほだされてしまい、自宅最寄りの店に連れて行かれたことがある。
車を駐車場に停めて降りた瞬間に、嗅覚が他の四感を支配する勢いではたらき始める。
とうとう来てしまった。
ここまで来てしまったら、もう引き返せない。
そんな悲壮な覚悟を決め、夫の後ろについて赤いのれんをくぐった。
店の中に入るとますます嗅覚が暴れたが、もはや意識的にシャットダウンしようという気力さえなく、流されるままに黒いTシャツの背中に屋号を掲げたお姉さんに案内される。
客席へ一歩踏み出した瞬間に覚える違和感。
なんだ、この床。滑る。一体どういうことなの。
昔遊んだドラクエのダンジョンに滑る床というものがあったが、その仕掛けがまさかこんな市内にあったとは。
密かに感動していたら、夫が
「床、油で滑るから気をつけて」
となぜか嬉しそうに言った。
何もないところでも転ぶわたしは恐怖を覚え、夫の手を握り、小上がり席にたどりつくまでよちよち歩いた。

運ばれてきたラーメンから湯気がたちのぼっていないことも衝撃だった。
夫がまた、
「油膜が張ってて湯気出てないけど、めちゃくちゃ熱いから気をつけてね」
と嬉しそうに言った。
わたしはその時には既に舌を火傷していた。遅いわ。
正直、「麻薬が入っている」と評されるラーメンの味は覚えていない。わたしには効かないタイプの麻薬だったのかもしれない。
暴れ倒した嗅覚によって胸がいっぱいになり、完食できなかったことだけは覚えている。

それ以来、夫があのラーメン店に誘ってくることはなくなったが、なんとなく夫婦の間にそのラーメン店を話題に出すのがはばかられる雰囲気も漂い始めた。
わたしは夫の愛するものを受け入れられず、夫はわたしに愛するものを受け入れてもらえなかった。
そんな気まずさを抱えてわたしたちは今日も共に生きている。
「最後に1回」と言われたら、ほだされてしまうような残念な女だったと、もともとさして高くはなかった自分への信頼度がガタ落ちしたのもこの時期である。
どうでもいいか。

夕食は夫婦揃って食べることにしているので、再び夫のいつ終わるとも知れないシャブ抜き期間が始まった。
しかし、在宅で働く夫の仕事が終わらず、わたしが床につく頃まで仕事をしている時が年に数回ある。
そんなとき、夫は気分転換がてら、わたしが寝静まってから外食に行く。
あるとき、わたしは再び嗅覚が暴れ狂うあの感じを覚え、飛び起きた。
自分でもわかるほどの勢いで上半身を起こしたのが、なんとなく記憶にある。
食事から帰ってきてこれから寝るのだろう夫に、何か文句を言った気がするが、それは覚えていない。

翌朝、夫はなかなかトイレから出てこなかった。
夜中に飛び起きたわたしに、
「くっさ! いやくっさ!! ブレスケアひと壜食いな!」
と怒られ、コンビニに行き、言われた通りにしたのだという。
わたしは夫に対してキレた後、またすぐに眠っていたというから、ほとんど無意識で叫んでいたのだろう。
夫は飲むブレスケアの飲み過ぎでお腹が緩くなり、トイレとお友達となっていた。
死ぬかと思ったとは言っていたが、夫はまだ存命である。
「ティコを気遣ってにんにくは入れなかったのに」
そんなふうにぼやいてもいたが、にんにくの問題ではないとわたしは断言する。
あの店のラーメンのかほりの口臭をさせながら妻の隣で眠ろうという行為自体が、もはやハラスメントなのだ。