私と偽物の父親と。


再婚したい。と、母に言われたのは今から11年前、当時私は小学5年生でした。

私は実の父親の事が好きで、その父親の祖父母とも仲が良くて、縁が切れてしまうのが嫌で、ずっと拒否し続けました。


何年も、母に説得され、
大好きな母が涙を流して説得してきたのを見て、
小さな私は、わかった。と言うしかありませんでした。


小6のクリスマスに婚姻届や住所の変更の手続きをして、夜はお寿司を食べに行き、

私達は家族になりました。


クリスマスの次の日、朝から母と偽父は出かけていて、お昼に帰ってきて、


エコーの写真を見せられました。


弟がやってきた。
それは本当に嬉しくて、楽しみで、お母さんのお手伝いは沢山しようと、小学生ながらとてもお母さんを大切にしました。


偽父に少し疑問が出てきたのはお母さんのお腹が大きくなってきた頃。


体調がすぐれないと良く横になっていた母、偽父はそういう時に限って家を空けていたように感じました。


それでも最初は仲良くみんなで暮らしていました。


小学校の卒業式、みんな母親に感謝の手紙を書かされました。私はその時、偽父にも手紙を書いた。

お母さんを絶対に幸せにしてほしいと。

信じていた。


中学に上がるタイミングで、
私達は地元を引っ越し、偽父の住んでいた家に引っ越した。


ここからが地獄の始まりだった。


アパートタイプの、二階建ての家
下の階はリビングダイニングに、大きな机と大きなテレビとソファ。それだけが置いてあって、


2階にある片方の部屋は親の寝室、
部屋のほとんどをクイーンベッドが占領していて、私達子供は立ち入り禁止だった。
と言っても、パーテーション式のスライドドアで私達の部屋とほぼ繋がっていたケド


そしてもう一部屋が、私と、四つ下の弟の部屋。
部屋のど真ん中に大きな2段ベッド、
2段ベッドにくっつけられている二つの勉強机。

階段も、ベランダも、親の寝室も、洗面所も全てに面している踊り場のような部屋で生活していた私と弟のテリトリーは、
ベッドの上だけ。
顔を合わせた時に、やれ、腹を出して寝ていた。寝顔が半目だったと、バカにされ、
彼にとっては面白い話だったのかもしれないが、思春期の女子中学生にとってはあり得ないほどのストレスだった。


2LDKの家に、家族4人、これから小さな命が迎えられようとしていた。


朝は誰よりも寝ている偽父
仕事はしていなかった
月20万のアムウェイの定期収入があるから。と


彼が住んでいた家は
彼の親が持っている家だった。
家賃も払わず、

結婚を機に買った車のローンは
良い歳して、
親が代わりに組んでくれたらしい。


偽父の歯医者の予約は、義理の祖母が行っていた。


そう、親離れ、子離れが出来てない人だったのだ。


偽父の家族は月に一度集まり、誕生日会と称して食べ飲みが行われていた。
そこでお料理を振る舞っていたのが料理人の資格を持っている偽父だった。


自分の家族のために料理を作って、
毎月20,000円
義理の祖母からと言う事で
それを毎月の祖母が光熱費に当てていたらしく、
二万円をオーバーしたら母に祖母が文句を言いにきたらしい。


まぁ別に偽父がマザコンな事なんて、子供の私達にはあまり影響は無かった。
問題は彼が王様だった事だった。


調理師の資格を持っている偽父は、ケータリングと言い、家に客を招く事が多かった。

だから、下の来客がある階にはほとんど物が置けず、

上の階に私たちの私物が全て詰め込まれていた
プライベートなんて存在しなかった。


来客があると、下の階には行けなくなり、狭い上の階に閉じ込められる私達、


片付けられる"場所"が無いから、
部屋は常に物だらけだった


私達が家に人をあげるのは禁止、

新しく買ったシャンプーなどを勝手に使うと怒られる、

ドライヤーは2台あって、高い方は使うの禁止。
⚠️偽父は坊主

ゲームを触るのも、DVDを見るのも全て許可が必要、

偽父が買ったものは食べるの禁止、少しでも減っていると母が怒られたそう。


何をしてもダメと言われ、自分が1人になれる時間も無いあの家でのストレスはすぐに限界になった


思春期も重なり、

私は偽父を避けるようになった。


それでも、産まれてきた赤ちゃんはみんなとても大切にしていた。


だんだん下の弟が大きくなってきた頃、
母が頭が痛いと寝込んでいる時に限って父がいない事が増えた。


行き先は

パチンコ


意味がわからなかった。

普段働きもせず、家賃も車も買ってもらって養った気になって王様でずーっと家にいるのに


母が体調が悪い時はパチンコに行くのだ、、
しかも毎回。


母のことも大切にしない人。大嫌いだった。


人と同じ空間にいて息が詰まる経験をしたのは後にも先にもこの人だけだった


険悪な状態で何年も時間は経って、
あまり家に帰らないよう、
早く自立したくて


高校生からは部活をやりながら、アルバイトを始めて、家にいる時間は寝る時間だけになっていった。


私はもぅ無理だから、
早く出て行く。ただそれだけだった。


ちなみに学費は、
本当の父親に頼んで出してもらって進学した。


私は建築学科に通っていた。

中学高校と、
家は大嫌いだし、勉強できるスペースも無かった為あまり勉強は得意じゃ無かったが、
なんとか大学に進学させてもらった


そんな時、私の糸が切れる事件が起きた。


大学は好きな事ができて、
課題や模型など大変なことも多かったが、オールしてやる事に充実感もあったし、初めて頑張っていると感じた。


大学一年生の課題で製図の課題があった。
みんな当たり前に何日も徹夜、


友達とやったりしていたが、
製図は、製図版が必要で、実家でやるしか無かったため、大嫌いな家のしかも大きな机がリビング(壁側に使ってない机が寄せられていた)にしか無かった為、
夕方帰って、製図をして、
朝方までやるのが日課になった数週間があった。


リビングではみんながご飯を食べたり、テレビを見たりしていたので、私はイヤホンをつけながら気にしないようにしたり、

みんながいる時間は家族と過ごしたりした。


問題はみんなが寝た後、


上の階で電気をつけていると、一番下の弟が気になって寝てくれないから。と、上で勉強ができなかった私は


リビングで1人黙々と製図をしていた、

が、
何故か、朝の4時近くまで父親が真横でテレビを見ているのだ。


理解できなかった。


それでも、文句言わず。我慢して音楽を聴きながら製図を進めた。


しばらくした頃、母親から呼び出された。


製図で使っていた机が傷ついていた。
そんな管理もできないなら使うな。と、
偽父から伝言が。


一瞬、え?となった


だって机の上に製図板を乗せて、ずっと動かさずに図面を描いていただけだった。

傷とは。

しかも、もう何年も使われずに部屋の端っこにあった机だったのに、


夜中自分のテリトリーで勉強してる私が目障りだったんだろう。


私が少し母に言い返すと、
母から絶対に言われたく無かった言葉が出てきた。


あたしに言わないで。
あんたが建築学科なんか行くって言ったんでしょ。


母は、応援してくれていると思っていた、
文句言わず、みんなが寝た後にやっていたつもりだった。


悔しかったし、とても悲しかった


そのことがきっかけで、もぉ家に味方がいないと感じ、限界に到達して、

その期間の課題は友達の家まで製図板を運んでやらしてもらって、


本当の父親に改めて交渉して、仕送りをもらって家を出る事になった。


その数年後、母達は離婚した。


今思い出しても、本当にしんどい時間だったなと思う。



あの時の私を、助けてあげたい。

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