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『恐れ』を解き放つもの

この数週間、いつもお会いするような方とは全然違う方とたくさんお会いして、自分のモノの見方とは全く違う世界を感じることが多くて「いやぁ、まだまだ世界は広いし、私は何も知らないんだな」と思い知らされまして。「私はおバカだなぁ」と思うこと多々。

そこで我が身を見直し、振り返ったのは「私に何が欠けているか?」。もちろん「私に欠けていること=モノを知らない、ということ」を前提とした上でじっくり丁寧に、自分を責め過ぎず、冷静に私がカルチャーショックを受けたことを検証すると面白いことがわかりました。

私に欠けていたもの。

それは「モノを知らない」ということではなく『恐れ』でした。

「え?マジでそんな風に考えるんすかーっ⁉︎ 考えたことも無かった‼︎

とか

「うそ、それが普通なの? 全然知らなかった‼︎

…と私がリアクションしたものの背景にあったのは全て『恐れ』。

「それが何かはよく知らない。だから普通は選ばない」

とか

「周りの目もあるし、〇〇と振る舞う方が安全」

とか。

そういうモノの見方や考え方のベースにあるのは『恐れ』だな、と。そして、私にはそれ系の『恐れ』はない。

知らなければよく調べたらいいし。
#ありがとうGoogle先生

「周りの目」なるものが意外と無責任だということを知っているので。「周りの目」を全無視はしないけど、そんなに神経質にならなくてもいいやという価値観が私の中で確立している。

なるほどーーーー。

『恐れ』が強めの環境になると、『恐れ』があまりない私には思いつかない「常識」が形成されていくんだな。そういえば、私も昔はそんな環境の中であっぷあっぷしていたな…溺れてどうしようもなくなる前に這い上がれる他の環境が見つかってよかったな(遠い目……)

………そんなことを考えました。

そしてさらに見えてきたのは
『恐れ』が強くなると『思考』が停止しがちになる、ということ。

『思考停止』に陥ると、必要な情報も遮断されてしまうので、より一層『恐れ』の力がパワーアップしてしまうというスパイラルが発生。

そのスパイラルに嵌り『恐れ』の中で『思考停止』したまま、どうにかより良き選択をするためのカルチャーが開発された結果の1つが『その環境における独自ルール(=ローカルルール)』なのかもなぁ。

だったら、私にゃわからない。わからないよー。その場その場で臨機応変に対応するしかないじゃんよー。

…と、そんな結論に落ち着きました。

もちろん、ベースにあるのが『その環境に生きることへの誇り』とか『その環境への愛が溢れ過ぎてしまったため』などの場合もあると思います。

でも、私が今回お会いした人が口々に話していた言葉の中にあったのは『恐れ』だったなー、と。

まぁ『“恐れ”とけば安心』っていうのは、ヒトの心の中には多かれ少なかれ誰しも絶対あるし。

“恐れる”ことで自分に“制限”をかけて“変化”が起こらない方が楽ちんだったりもするので。“恐れ”が濃厚になればなるだけ、意外とそれは、それだけ平和な環境だってことなのかもしれない。

でも。

『“恐れさせ”とけば安心』

…と“恐れ”を逆手にとって、他人をコントロールしたり利用したりする人がいるのも(悲しいかな)現実なので。

自分の『恐れ』を他人に委ねていないか? 自分の『恐れ』が過剰反応していないか?は、チェックしておく方がいいかもしれません。な。

そして、そんな『恐れ』を出来るだけ解き放ち、自分が自由になるためには『知性という名の“光”』が必要なんだなぁと改めて思いました。

ソレ系の「恐れ」は私にはあまりないけれど、そりゃ私にだって別の『恐れ』はあるし。

今回のこともよく考えずに「知らなかったな、私バカだなー」と終わりにしたら、何も気づかず学ばず、再び新たなカルチャーショックを受けたときにまたイチから「知らなかったなー、私バカだなー」と思うことを繰り返すだけだったかも、と思うと、それがもう既に怖いかも。

てことは。

「人生の学びや気づきは終わらない」ってことですよね。そうか、「恐れ」に捉われないためにも、そりゃしょうがないかー。

「諦めたら、それで試合終了ですよ」…スラムダンク・安西先生の声も聴こえてきそうです。ね笑。

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