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祟り神


西洋の思想としては、絶対的“善”としての神さまがいて、その真逆にいるのが“悪魔”だったりしますが。

以前このnoteでも触れた「ニギハヤヒと『先代旧事本紀』」を読む中で、日本の場合は、神さまの中にも“祟り神”という存在があり、手厚く祀ることで強力な守護となるという考え方が御霊信仰の原理にあるという。

この本では触れていませんが、平将門塚などはそのよい例ですよね。映画の呪術廻戦もやっぱりこの信仰原理をベースにしているような気もして。こういうところが、日本の神さまたち、そして日本人における“信仰”の奥深さだと私は思う。思います。


「ニギハヤヒと『先代旧事本紀』」の中では、

それまで石上神宮にあった剣をすべて別の場所に納めたところ、その新たに納めた倉が倒れ、また別の場所に納めたところ、今度は天皇が病に倒れ、怪異が次々に起こったので、巫女に降神させたところ、当初予定していた神さまとは1文字違いの名前の神さまが巫女に憑依して、一晩中怒り狂った。このため、天皇は自分の歳の数と同じ人数(69人)の僧侶に読経させて、剣を元に戻した(『日本後記』巻12)

…ともあり、何というか昂りました。

一晩中怒り狂う神さまも、その怒りを鎮めようと読経を捧げ、剣はじめ神宝を元に戻す当時の天皇も。みんな真剣勝負。剣だけに笑。

日本の神さまは懐が深いけれど、一方で怒ると本当に怖い。しかも、それはどことなく人間味を感じるような“怒り”。だからこそ魅力的なのかもしれない。

天照大御神が岩戸に隠れてしまったのも、冷静に考えると実に人間味がある。

神さまだって、怒るのだ。

そう考えると、私ごときが烈火の如く怒るのは至極当然のこと。怒るときは怒って然るべし。そう思うとちょっと救われる。救われたことで、その怒りを手放せる。神さま、やっぱりすごいな。←単純

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