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瞑想はがんばらない。 努力はなんで報われないか?エネルギー的な見方。③

前回の「瞑想はがんばらない。努力はなんで報われないか?エネルギー的な見方。②」では、私の身体の力の抜き方(誰でも知っているようなこと)や私の攻めの瞑想方法についてまとめました。

ちなみに、前々回の「瞑想はがんばらない。努力はなんで報われないか?エネルギー的な見方。①」では、瞑想する際は“がんばらない=真面目さ、一生懸命さを手放す”ことの大切さや意味についてまとめてました。


そして3回目となる今回は、瞑想をやっていると陥りやすい現象や注意点、最近の瞑想にプラスしてすっごく良かったことをお話したいと思います。


■瞑想をやっていると陥りやすい現象

私の場合、最初の頃は瞑想を行っていくうちにエネルギーがグルグルと勢いよく循環してくると、必ずアレが発生していました。

アレとは「むち打ち」。居眠りをしていて、ガクっとなる体験はわりと誰にでもある体験ではないかと思いますが。あの「ガクっ」の強烈なヤツです。ちょっとした事故にあったような衝撃を感じていました。

別に瞑想中に居眠りをしているわけでは決してなくて。むしろ、エネルギーのグルーヴをぐわんぐわんと味わって、楽しくなってきた瞬間に訪れる「ガクっ」と身体が倒れるような衝撃。水を差す、という言葉がまさにぴったり。

その衝撃が来るたびに泣きたくなっていた私。師匠に相談すると

「エネルギーが身体の中で勢いよく流れすぎて、はずみで外に飛び出していくと、それにつられて身体がガクっとなってる。エネルギーをきちんと掌握しなさい」

…とアドバイス。その結果、エネルギーを100%自分の中に掌握することを徹底的に意識して、その感覚が掴めてきました。快適に瞑想ができるようになって、しばらくするとまたあの「ガクっ」という衝撃が。エネルギーは掌握しているし、今度は何だろう?と思って、よく観察していると、オーラの周りで活性化している“過去生”のビジョンに飛びつこうとする私のエネルギーが視えました。


■備考:オーラで視る“過去生”とは。

ここで、ちょっとだけオーラにおける“過去生”の視え方についてお話しておくと、オーラの周りによくあるノートパソコンのモニターくらいのサイズの画面が光って、その画面の中に過去生の映像が流れているようなイメージです。人によってたくさんの過去生が一度に活性化していれば、オーラに光った画面がいっぱいある状態として視えます。過去生の内容は、その画像の中にどんな映像が流れているかフォーカスして視ることでわかります。過去生をもっと詳しく視たい場合は、自分の前に映画を観る用の大きなスクリーンを設けて、まるで映画やドラマを眺めるように視ていきます。この“過去生”を視るときの感覚もとっても不思議で面白いのでまたの機会にお話してみたいと思います。


…と、話が横道にそれましたが。

そんなわけで、エネルギーの飛び出しをコントロールし掌握ができた後にやってきたのは、過去生の活性化による“むち打ち”。

瞑想は純粋なイメージワークと思っていたら、こんなに肉体に影響が出るだなんてびっくり。

仕方がないので、活性化している過去生を粛々と爆破し続けました。活性化している過去生にフォーカスし始めると、私のオーラの中で死ぬほど光っていて、やってもやっても終わらない…と「終わり」が見えなくて辛かったことを今でもよく覚えていますが、今でも時折光る過去生はありますし、そんな簡単に終わるもんじゃないということがわかると楽になりました。さして「オールドソウル(=何度も転生を重ねている古い魂)」なわけじゃない私でさえこんなにあるので、オールドソウルの方がガチで自分のエネルギーを浄化しようと向き合ったら大変なのではないかと思います。いや、ほんとに。

これが、私の“瞑想をやっていると陥りやすい現象=瞑想あるある”ですが、このほかにも瞑想をしていると「洋服着たまま、プールにでも飛び込みましたか?」というくらい、全身びしょ濡れになるほど汗だくになる方などもいます。私は、スクールで瞑想していたとき、瞑想が終わり目をあけたら、対面に座っている方が本当にびっしょりで「泳いできたの?」と思うほど髪の毛も全部濡れている人がいたので(しかも毎回)、本当に驚きました。まぁ、それも自分で「汗」をコントロールすればよいだけの話なのですが。慣れないうちは、なかなかどうして、私のむち打ち同様、身体の反応を止められないものです。

皆さまも瞑想する際は、お気を付けてくださいね。
大事なことは「(全て自分の中で起きていることなので)何でも自分で解決できる」なので。安心して、自分のエネルギー状態を確認して適切なアプローチをしてくださいね。

■最近の瞑想にプラスしてよかったこと

瞑想で爆破をしていると、同じ方法ばかりだと飽きてしまいます。飽きると人間、その所作に「慣れ」が出てきます。頑張りすぎてガッチガチになるのも頂けませんが、「慣れ」は「慣れ」で困りもの。なぜなら「慣れ」ってよくも悪くも色々と簡素化してしまうので、瞑想を「お掃除」に例えるならば「手抜きなお掃除」になりやすくなるわけで。それだと、瞑想しても意味があまりなくなります。四角いところを丸く拭いてしまうので、汚れがクリアにならないので。

なので、私は瞑想=爆破が飽きる前に私はあの手この手で工夫をしています。

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