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(修正版)日中韓同祖論のメモと修正2

♪(修正版)日中韓同祖論のメモと修正2

1の後半である。

間違えてる部分を修正した

おかしい部分は、自分で調べてくださいませ。

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メモ

・・で、亡命後の燕国の太守は、満に外相
として異民族の支配を許可しました。

BC128年、領土争いでカイ族数百名が
「満(燕人)」の朝鮮王朝に降伏しました。

BC108年以前漢の武帝は、シルクロードから、
東南ア、東海までの壮大な交易(支配)
を妄想
しましたが、資金が無かったため頓挫しました。

BC108年、武帝は、とりあえず朝鮮部族を制圧する
ため派兵して、王険(北朝鮮)城を占領侵略し、
満以来の、朝鮮王国が滅びました。

そして朝鮮の領地に、楽浪など植民地統括4郡
リニューアルして、朝鮮半島全域に新たに設けました。

朝鮮半島の支配権(貿易権)が
漢帝国に完全に占領されました。

この頃から数万人単位の中国人(漢人)
が朝鮮半島に移住しました。

ちまちま沿岸で中国と交易をやっていた倭の越人や、
燕人の商は、漢帝国の東海岸開発計画で大規模な
交易ルートに発達しました。

朝鮮同様に、倭への中国人移住者も一気に増えました。

中国人の、道教秘密結社も倭に移住し、
越人や燕人時代からの原始呪術(山岳祖神崇拝、
農耕儀礼)から、巫女や神託による宗教的権威
に変化しました。

初期道教の、神託呪術は鬼道と呼ばれ、小規模の
秘密儀礼(秘密結社)から、後に宗教化(五斗米道教)
して信者も大規模化しました。

道教呪術である巫女の口寄せ(預言)は、
漢帝国の移住者が増えた頃から、倭や朝鮮では
部族の統治に利用されました。

巫女による預言(神託)を女系祭祀といいますた。

朝鮮のムーダンや、邪馬台国の卑弥呼らが
巫女呪術の末裔ですた。

BC82年くらい以降、漢帝国は経費削減のため、
朝鮮南岸の真番郡や東海岸の臨屯郡を廃止しました。

そして朝鮮半島管轄下の15県を遼東郡で監視しました。

北方地域の軍事基地である玄ト郡を吉林
(高句麗県)
に移動しました。

BC72年、原住民の抵抗で漢帝国の役所を遼東郡
(今の瀋陽(遼寧)付近)から、老城に移動して
一箇所で郡県支配をしました。

BC37年朱蒙なる大王が、高句麗国を
建国(統一)しました。


↑ ドラマはプロパガンダ用、史実は詳しく知らん。

 高句麗は、満州も入るから、朝鮮だけではない。

BC23年王モウ帝の改革で大混乱に陥り、
反乱が起きて漢帝国(前漢)が滅亡しました。

AD25年光武帝が大混乱の中国を再統一
して後漢が開始されました。

AD30年、楽浪郡(平壌)の中国人豪族「王調」
が反乱を起こし、楽浪一帯を占領しました。

AD44年以降から、南朝鮮で色々の小国家が形成
されて、楽浪郡の支配下になりました。

実質的な漢帝国の役所は遼東郡にあったとされ、
楽浪郡は元漢人の豪族、王調一派が支配していました。

AD1世紀前後、中国人移住者(倭人=弥生人)の
交易都市であった百以上(百余国)の小都市は、
異常気象で不作だったらしく、何やら
いざこざが至る所で発生しました。

AD107年、高句麗国(北朝鮮、遼寧省)を、なる
王が統一して辺境(漢との国境)に侵入し、略奪をしました。

同年、筑紫(博多)の倭王「師升」が後漢帝国に
奴隷の献上物と使者を送り何らかの交易をしました。

2世紀には鞍安(今の遼寧省内)の高句麗族、
農安(今の吉林省)の扶余族と漢帝国の遼東郡
出張所との交戦がしきりに勃発しました。

AD184年太平道教の乱や五斗米道教の
拡大
で漢帝国が弱体化しました。

邪馬台国の巫女「卑弥呼」の鬼道(道教)も、太平道教や
五斗米教の拡大で、宗教で統治をする集団に組織化されて
いきました。

倭は、中国様を刺激しないよう、武力の拡大より
宗教的な統治を選びました。

微弱な武力は内政に使いました。

倭の、諸地域の首長は、中国式の建築技術で
城柵付きの神殿を建設しますた。

そして、他の部族を牽制したり
宗教的(道教的)に併合しました。

五斗米教以後、東北地方+内蒙古の遊牧民族高句麗族、
扶余族やチベットの鮮卑族、カイ・ハク族などの
朝鮮諸民族、漢人との間で東北地方、朝鮮北部を
戦場にして領土争いが続きました。

AD197年、高句麗族で王権争いが勃発しましたが、
この頃から楽浪郡の中国人達が戦乱を避けて南朝鮮
への移住が続々と増えました。

幽州(北京と河北省の一部~遼寧省)は、最強
らしき白馬の騎馬部隊を編成する「公孫サン」
高句麗や北方遊牧民を抑えつけ辺境を支配していま
したが、袁紹に侵入され自害しました。


公孫サンの武将の、趙雲子龍は、後に、劉備と合流しますた。

サンが死した後は、一族の「公孫度」なる
人物が遼東郡を支配し、楽浪郡を再度整えました。

AD204年、公孫度が死んで、息子の公孫庚
が体制建て直しのために、南朝鮮の倭族や
カン族、逃げた漢人を強制復帰させて支配しました。

この時期に卑弥呼が幽州(遼東郡)
の中国人と接触しました。

遼東郡が戦乱で機能しなくなっていたので、
朝鮮南海岸地域治安のため、倭の邪馬台国が
重要視されますた。

以来魏帝国の政策に、それが断続されました。

公孫氏は呉の孫権とも同盟を
結びましたが、袁紹に負けました。

高句麗族も孫権と同盟を結びましたが、
すぐに魏の曹操に鞍替えしました。

AD220年曹操が、左慈と関羽に、ダブルで
呪いをかけられて、発狂して死にますた。

同年、曹ヒが文帝に就任して魏帝国が成立しました。

この時代以降、高句麗、朝鮮半島、
倭(弥生)の一部が明確化されました。

AD221年、劉備が昭烈帝となり
蜀帝国を立ち上げました。

AD222年、燕人の末裔らしき?「張飛」
や劉備が戦死しました。

同年、孫権が呉帝国を立ち上げました。

AD234年諸葛孔明が五丈原で病死しました。

AD238年、魏帝国は手下の高句麗族を
使って公孫氏を滅ぼしました。

魏は楽浪、帯方2郡を支配地として、
朝鮮を再度復興させました。

これにてほぼ、高句麗、遼東、朝鮮半島を
領地にした魏は、南朝鮮のカン(韓)族や
東海の島国であった邪馬台国(倭)とも交易
(支配)を始めました。

AD239年、魏が占領した楽浪郡の小役人が、
魏志の東夷伝なる記録文書の中に倭人伝なる
エピソード(記録)を残しました。

三国志原書の作者「陳寿」東夷伝(倭人伝)
編纂しましたが、魏国辺境地域開発計画の政策的
部分から、かなり脚色されました。

そのせいで近年の邪馬台国論争が大混乱に陥りました。

同年、曹芳魏皇帝に即位しました。

AD244年、高句麗族は魏帝国に歯向かい、
幽州から派兵された部隊に首都が占領されました。

南朝鮮諸部族と邪馬台国は積極的に
魏帝国の支配下に入りました。

魏志東夷伝によれば、南朝鮮のカン(韓)族は
馬韓、弁韓、辰韓の三韓に大きく分かれていていました。

しかし境界などは不明瞭で、前記の
ように政策上の脚色がありました。

記録上では、辰韓の辰国王が支配する
月支国の他、24国以上の小国家が存在
して、恐らく北朝鮮のカイ族より生産が
豊かで人口が多かったようですた。

*馬韓は50余国、人口10万余。

これらの小国家に魏帝国が官位を与え、
貢物(徴税)を義務化しました。

三韓は農村共同体で権力らしきものが無く、
ネィテブインディアンの儀式と似たような
風習がありました。

カン(韓)族は、鬼神や天神(道教用語)
を民間信仰しました。

「ソト」なる祭祀の村が儀式として大木に
鈴や太鼓をかけて鬼神(道教の幽霊だが、
この場合祖先霊)を祭りました。

(日本の風習では「鬼は外」で、節分になった)

これらのことから、階級に関係なく漢帝国以前
からの儀礼や風俗がチマチマ南朝鮮に伝播されて
いたことが分かりました。

AD249年、魏の司馬仲達がクーデターを起こしました。

AD263年、魏の鍾会、トウガイに
攻撃され蜀帝国が滅亡しました。

AD265年司馬炎が魏を滅ぼし、
晋帝国を立ち上げました。

AD280年、呉が滅亡して(西)晋帝国
中華を統一しました。

AD304年、黄土高原が辺境民族主体の
五胡十六国に分断されました。

これ以後、黄土高原の人材や国力が衰えて、
辺境民族や朝鮮、倭国が独立国として台等し始めました。

AD307年、鮮卑族の首長「暮容庵」
鮮卑大単干と改名して遼東郡を攻撃しました。

AD313年、戦乱で楽浪郡の漢人太守が
支配を放棄して逃げました。

同年、高句麗族の美川王が楽浪郡、
帯方郡(北朝鮮)を占領しました。

そしてカイ族、ハク(狛)族、諸部族を
武力統一して大勢力になりました。

AD317年東晋帝国が成立しました。

AD342年、燕国の国王「シュン」が高句麗族
を破り、柵封を与え手下にしました。

漢帝国以来の出張所2郡が滅んだ後、漢人の
亡命者や高句麗の南下やら何やらで人口が増加
した三韓が統一されました。

辰(秦)韓諸国が「新羅」次に馬韓諸国が「百済」、
弁韓が加羅諸国(任那)、当初から北部朝鮮が
高句麗として、三国と諸国家に別れました。

AD369年、燕国支配下の高句麗が百済に
侵略しましたが2回負けました。

新羅の神功皇后?が、高句麗族を迎撃しました?

AD372年秦国の王から高句麗に仏教経典や
僧侶が送られてきました。

同年、高句麗に大学が建設され
儒教教育が開始されました。

同年、百済王が入朝しました。

AD374年、阿道なる僧侶が高句麗に初めて
寺院を建設し開山し、そして高句麗に続き
南朝鮮にも仏教が広がりました。

AD381年、新羅王が秦国に入朝して美女を奉納しました。

同年、高句麗が入朝しました。

この時期あたりから百済と新羅は高句麗に服属しました。

AD391年、朝廷が百済に侵入して占領しました。

AD400年、朝廷は新羅も攻撃しましたが、
高句麗が介入して負けました。

以後、三国や任那に朝廷と黄土高原諸帝国が
絡んで朝鮮半島の領土権を巡って動乱が続きました。

AD439年、五胡十六国と東晋帝国が
南北朝に2分割されました。

AD 608年、随書「東夷伝」によると、ヨウ帝は
倭王武の答礼使者を南朝鮮沿岸を辿り九州に派遣しました。

その使者が筑紫国より東の秦国に訪れた際、
そこら辺の土地に、原住民として中国語を話す
中国人が大量にウロウロしていた
ので非常に驚きました。

「これは徐福の一族(末裔)ではないか?」
と使者は記録しました。

「東夷伝」による当時の倭国情勢は、まだ
諸部族(諸国)がウロウロ乱立した状態で、
対馬(都シ麻)やイキ島(一支島)は独立諸国でした。

倭王が初期道教(呪詛)で支配する邪マ都(倭)
と筑紫国や周辺の諸地域だけが倭国らしき小国家
を形成していました。

メモはまだ続くが、キリが無いので、ここまで!

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♪北魏の民族浄化

動画の予告編をメモした作文、続けて貼る。

中国が、南北朝に分裂した続きである。

漢民族=モンゴル人となっているが、漢民族
は、もともと、モンゴル人ではないそうだ。

漢民族らしき民族は、三国志時代までらしい。

俺が知っているのは、三国志演義の、蜀が
市街戦で滅びた、晋の頃までである。

それ以後は、全くわからんwww。

大分裂時代、モンゴル自治区とか、その辺で
勢力を増した、モンゴル人(鮮卑族?)
大暴れして、北魏を立ち上げた。

そのおり、モンゴル人は、占領した地域の、
民族浄化をしており、旧漢民族を、抹殺したのである。

そもそも、中国の戦いは、氏族部族同士の戦いで、
三国志も、漢部族と、曹氏、孫氏(呉氏)の戦いである。

敵対する氏族の、血縁を皆殺しにする風習は、
事実かは知らんが、小説に書かれておる。

北魏のモンゴル人は、更に残忍な抹殺方法を
執行しており、それが民族浄化だという。

民族浄化は、男を皆殺しにして?、旧漢民族
の、美少女美少年、JC、JK,JD、OL,主婦、熟女
を、よりどりみどり!

ハーレム、セックスマシーン、出産マシーン
洗脳して、100年くらいかけて、モンゴル人の
遺伝子
を、黄土高原に普及させたのである。

いわゆる、カースト制度社会である。

例えばだ、旧漢民族の、JKをレイプして出産。

男児なら殺して、女児なら、JCくらいで
レイプして出産・・と、それを繰り返す。

男の方は、純モンゴル族の男女の子供で、
都合をつけるのである。

純モンゴル族だけが増えて、旧漢民族の血が
どんどん薄くなっていくという方法らしい?

その時に、旧漢民族は滅んだと、学究的
に言われてるようである?

それが現在の漢民族なのかは分からないが、
三国志時代の、義侠的な、旧漢民族と、現在の
中国人は、全く別の民族である
、という話は、
この辺から来てるようである??

三国志以降、ようわからんが、モンゴル人の
北朝と、漢民族の南朝(宋)
に分かれておる。

北魏、宋も、すぐに滅びて、に統一されるが、
意味が分からんww、せわしない文明圏である。

で、北魏のモンゴル人の残虐な民族浄化は、
共産党による、侵略方法に起用されているそうだ。

ウィグル人の虐待、法輪功の虐殺などがそれである。

農村部にも、それらしい風習が残っているようである。

民族浄化は、ヒトラーがガス室で、実践して
おるが、この場合は、単純な皆殺し方法である。

ちなみに、満州族の清など、その後も、
異民族の王朝は、繰り返されている。

上記のネタとは別の話だが、ふとウィキの
年表を見たら、黄河文明の時期が、9000年前
~4000年前
と、随分、幅広い期間になっておるww。

糸井重里の、中国4000年の歴史はどうなった?

当方も、殷か夏の時代からが、黄河文明の時期だと
思い込んでおったが、あれ?、全然違っておるwwww。

剃れと、長江文明の、16000年前~3000年前と、
遼河文明とやらが加わっており、教科書レベル
では、意味不明である。

♪古代中国は縄文人だったwwwwwww

縄文文化は、黄河文明より古い文化圏で、
近年では、世界の文明圏の一つとして認められる。

当方が調べたわけでなく、いつものメルマガ
の流用だが、パプアニューギニアの端っこの島
(バヌアツらしい)
から、太古の縄文土器が
幾つか発見されておる。

そこら辺まで、魚を捕りに?、遠征、
居住していたようである。

縄文人は、38000年前に、ボルネオ島あたりから、
船で、列島を横断、北海道まで来ておる。

所謂、ハプロCグループっぽい?
古い遺伝子を持つ連中である。

ラスコー洞窟の壁画あたりの時代であり、
縄文人や古代人は、その頃には、造船、海洋
技術を駆使して、太平洋を、縦横無尽に、
ウロウロしていたーー
ということである。

アイヌの文化風習と、ボルネオ島の風習が
似ており、アイヌは、寒い地域にいながら、
南洋の遺伝子を持っておるらしい。

台湾の、高山族とも似ている。

縄文アイヌは、大陸北方の遺伝子
とは違うということである。

南米ガラパゴス諸島ら辺で、縄文土器に
酷似した土器が見つかっており、集団は更に、
南米まで、行動範囲を広げている。

海流からすれば、往復も可能であったということである。

一方、大陸側の方である。

長江文明は、黄河文明より古い、15000年前
からの文化圏であるが、実は、縄文土器を使用
していて、カヌーで、海洋を往来していたらしい。

つまり、中国南方は、最初から、縄文人が
ウロウロしていた地域だったのである。

と呼ばれる地域は、縄文人の文化圏である。

雲南省の少数民族に、縄文文化が現存しており、
倭の文化との共通点が、複数あるという。

×南方中国⇒縄文(左翼の情報工作)

〇縄文⇒南方中国(正解!)

殷(商)の人々はもともと東海海岸諸民族の一支族
とされ、古くは東方にあって「夷」と呼ばれていた。

夷などの、諸民族の文化圏が、夏の時代である。

中国人は、その時代には存在していないwwwww。

後漢書東夷伝には、殷の時代以前は、
九つの異民族が、長江文化圏をウロウロ、
定住していた
と、記されている。

それらが、夷である。

その異民族の一つが、夷こと、縄文人である。

恐らく、その時代、異民族の集団の一つとして、
ユダヤ遊牧民もウロウロしている。

商の古代文字こと、甲骨文字(漢字の原型)には、
神話的な記述があり(ウや五帝など?)、司祭(呪術)
の道具など、極めて縄文や弥生文化に似ていたようである。

メルマガの引用では、「縄文人たちは揚子江沿いに
古代文明を築き、黄河沿いでは商王朝を開いて、
中国史に足跡を残しています。」
と、断言しており、
殷のどっかの年代までは?、黄土高原は、縄文人
などの、異民、多民族国家だったのである。

黄土高原の中心が、縄文人で、恐らく、
その地域ら辺で、ユダヤ遊牧民との混血が
あったように思われる。

つまり、南方中国沿岸の、夏時代からの越人は、
もともと縄文人で、遊牧民と、その末裔の民族で
あった、
というのが、正解だと思う。

縄文の国家的な風習は、遥か太古から存在していた
ようなので、エジプトの太陽信仰に影響している。

結局、弥生とは、中国に住んでた縄文人の
末裔が、母国に移動しただけなんで、渡来人と
いっていいのか、疑問であるwwwww。


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