物語の免疫(94日目)

・映画版『スモーク』、あのハーヴェイ・カイテルが出ていたやつのキャッチコピーがたしか「間違いだらけの真実の物語。」だったんだけど、これフィクションの定義として超完璧だと思い出すたびに唸る。

・とか言いつつ文言自体はうろ覚えなんだけど、正確にはなんていうコピーだったかはもうどうでもよくて、おれの中ではすでにこのコピーがひとつの真実となっている。事の正誤というのは人ひとりにとっての真実とは全く関係が無い、ということを図らずも表していますね。

・それに触れた人に「この中に真実がある」と思わせるのが物語の素晴らしいところでもあるしめちゃくちゃ危険なところでもある。

・これまたうろ覚えなのだけど、村上春樹が多くのオウム信者にインタビューした際、軒並みみんな「いいえ」と答えた質問がひとつあったという。それは「若い頃に小説を多く読んだ経験があるか」といった質問だったそうだ。妙に納得がいったのを覚えている。(ちなみに自分は誰かのツイートでこの話を知った。おそらく『約束された場所で』の取材時の話だと思うが、出典がどこかは不明。よってこの話が事実である保証は全くない。)

・オウム信者たちは高学歴の専門家も多かったが、オウムという今となっては明確に危険で破滅的な物語に、賢い人たちが取り込まれてしまう結果を招いたのは、いわゆる「頭の良さ」とは別の軸に存在する、物語への免疫が育っていなかったからなのだろうと思う。フィクションは自分を食い物にしようとする物語へのワクチンにもなりうる。

・ここでいう物語というのは、自分の人生やこの世界をどう解釈するか、という視座のことでもある。

・人生や世界なんて、解釈しようとしても答えが出ないしわからないことばかりなのだけども、そういう前提を自覚するために芸術だとか文学だとかは存在する。わかったようなつもりにさせる言葉の危険性を察知するには、やはりワクチンとして芸術を接種しておいた方がいいと思う。

・人生や世界から目を背けさせようとするまやかしの物語は、休憩地点としては欠かせないものだと思うけども、それが人生や世界を覆ってしまうと日本を取り戻したくなったりアメリカをグレートアゲインにメイクしたくなったりします。

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