嘘を書くことについての個人的なメモ(98日目)

・ここで掌編書く宣言したはいいもののたった2編しか書いてないというていたらくに我ながら若干引いていますが、そもそも小説というのはどうやって生まれてくるものなんでしょうか。

・いったい何を小説にしようと思うんでしょうか。
逆に言えばなんで書こうとしたそれは小説として書かなきゃいけないんでしょうか。
別に小説じゃ無くてもよくないですか。

・仮に自分の身の回りで起きた、人間関係でもやもやする出来事を書こうと思ったとする。

・まず出てくる人は自分、Aさん、Bさん、Cさんだとしよう。
自分はAさんと仲が良かったが、途中からBさんが入ってきてAさんとすっかり意気投合してしまい、徐々に自分はAさんと疎遠になってきている。
AさんとCさんは表面上穏やかに接しているが内心はお互い苦手だと思っている。
Cさんはとても優しいが非常にのんびりしていて何をやるにも一歩遅れる。
Bさんは密かにCさんの悪口を言うようになり、少しずつAさんがそれに乗ってくるようになる。
自分はそれに気づいているがCさんは気づく様子がない。
Cさんが何かドジをやらかすたびに空気が冷えるようになる。
自分はCさんをそれとなくかばうようになるが、次第にAさんがその様子にいらだちを隠さなくなってくる。

・みたいなシチュエーションが身の回りであったとしよう。
これを単に事実として記録することと、小説として書くことの違いはなんだろう。

・小説は本来自分が知り得ない場面だとか人の感情だとかをどう書いてもいい。
事実として書くなら自分の視点から見た4者の人間模様を、それぞれの行動と自分の心情を絡めて記録することしかできないが、小説ならA、B、Cそれぞれが何を考えてそのとき行動したのかを勝手に想像して書くことはできる。

・小説は小説として書いていることを意識しながら書かないと、小説として書く必要性がなくなることが多い。
その表れは例えば面白さだったり、リーダビリティだったり、文体の意図だったりする。
それは事実を記録することとはまた別の次元にある話だろう。

・小説は事実をそのまま書くことで人が傷つくことを、やり方によっては防ぎながら書くことができる。
この人間関係のもつれを記録した文章をA、B、Cの誰に読まれてもハレーションが起きるが、それぞれをはっきりモデルだとわからないように書けばそれはA、B、Cそれぞれにとってもフィクションとなる。

・つまるところ小説は「嘘」を必要としたときに書かれるのだろうか。

・そもそもここで書いたA、B、Cなどという人物は現実には存在しない。
なんとなく見覚えがあるけども知っている人とは違う人物である。

・じゃあ小説を書こうとするとき、いったい何を「嘘」にしたくて書こうと思うのだろう?

・あ、ここまで読んでくださった強靱な忍耐力の持ち主の方のために一言申し上げておきますが、完全に自分用メモになってきたので明確な結論とかは一切ないです。ごめんなさい。

・嘘でしか書けない、この世に存在しないものや出来事を書きたくて書く。
それはゾンビだったり超能力者だったり無限に広がる建物だったりするかもしれない。
もしくは、現実で死んでしまった人がもし生きていたら、という仮定のもとに描かれた人生だったりするかもしれない。

・その嘘でしか書けない真実がある。なぜか嘘でしか書けない。

・その嘘によって塗り替えたい現実がある。
現実にも、嘘によって現実を塗り替えてしまっている人がそれなりに多く存在しはするが。

・何を書こうとしているのかわからないままそれを把握しようとして書いた結果ところどころ嘘になっている。

・というか人間が自分の人生や世界を解釈することはそもそも不可能であり、解釈した時点でそれは嘘である。
この場合それは物語であるとも言い換えられる。

・自分がAという人、Bという人、Cという人をそれぞれ「こういう人だ」と思っている、その正しさを担保するものはなんだろう?
それぞれの人がそれぞれの人に対して持っているそういった認識は、そもそも正しさといった尺度で測られるものではなく、はじめから各々のなかで練り上げたフィクションであるのでは?

・自分も世界もフィクションである、ということを「本当に」わかる形で示すことは、フィクションにしかできないのかもしれない。

・……なんの話だっけ?

・なんかおっきな話ばっかりしてて何が何だかわからなくなってきたけど、そもそもおれは何を小説として書きたいんだっけ。

・おれは自分を取り巻く他人も出来事も世界も把握できないし説明できない。
要素の羅列はできるかもしれないけど統一したものとして捉えることができない。

・「わからない」ことを「なんとなくわかる」ようにするためには考えて書くしかないっぽい。

・なんかそういうことを考えるときに、自分に起きた「事実」より、起きていないしこの世に存在してない「嘘」の道を通る方が、なんというか電気抵抗が低いらしい。

・例えば自分とAとBとCのこんがらがった関係を把握するために書こう、という気があまり起こらないのは何でだろう?
それより夜の公園に出る幽霊のこととかを書きたいのは何でだろう?
それは現実を解釈するために象徴みたいな間接性が必要だからだろうか?

・自分の場合、わからないものを「怖がる」か、「笑う」という反応になることが多いみたいだ。
そのふたつの情動は、「理解する」ことと「突き放す」ことを要請しているという共通点がありはしないか。
「わからなさ」と「遠さ」の輪郭を彫っていくために「恐怖」や「笑い」を必要としているんじゃないか。

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