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おんぼらぁと(後編)

おんぼらぁと(後編)

森先生ご夫妻の思い出


 2022年初秋、訃報が届きました。学生時代にお世話になった恩師・森直弘先生の奥様・森 佳代さんです。8月19日に満103歳で天寿を全うされたそうです。
 ご長男様からのお知らせには、生前、お孫さんのひとりにしみじみと「幸せな人生だった」と語っておられたというエピソードが記されていました。

人生の師



 森先生ご夫妻は、金沢市の閑静な、趣きのある日本家屋にお住まいでした。先生は定年退職されるまで毎週木曜から金曜にかけて、金沢から大学のある長野県上田市まで、特急「白山」で通勤されていたのです。
 私は在学中も卒業後も、なんども泊まりがけで金沢のご自宅にお邪魔して、奥様のおいしい手料理をご馳走になったものでした。今から思えば本当に奇跡のようです。森先生のような人生の師に巡り会えたことは、まちがいなく私の大学生活の最大の幸運でした。

奥様との交流



 先生がご病気で他界されてからも佳代さんとの交流は続きました。米寿のお祝いには内田康子さんと3人で、新宿でお会いしました。佳代さんは華やかな紫色のコートをリメイクしてお召しになり、とてもお元気そうでした。

 卒寿のお祝いには、広沢里枝子さん、盲導犬ネルーダさんと一緒に金沢のご自宅をお訪ねしました。
(その時のエピソードは『おんぼらあと(前編)』にまとめました。)

忘れ難い金沢ことば



 最後にお会いしたのは6年前の2016年の10月。佳代さんは満98歳。認知症が進み市内の施設にお住まいでした。
 私は黒姫での森歩きの仲間と別れて、新幹線で金沢へ向かいました。金沢駅から施設に直行したのは夜7時ごろでした。

 佳代さんは、ダイニングルームでユニットの10人ほどの女性と夕食を召し上がっていました。
 私をみても誰か気づかないご様子でした。
斜め横に腰を落として
「お久しぶりです。森先生の教え子の…。お仲人をしていただいた…。文集『もらとりあむ』の…朝子です」
短い単語で、静かにゆっくり伝えると
「ああ、先生の教え子の? 朝子さん…?」
と、束の間わかったような感じがありました。
 そのあと佳代さんが私にかけてくれた最初のことばは、
「あんた、ごはん、たべたんかいね?」
という身内に話しかけるような温かい金沢弁でした。

 食事を終えた佳代さんは、歩いて個室に移動しました。私は、佳代さんの記憶を呼び起こしてみたくて、持参した内田康子さんの個展のお知らせや、ご自宅の前で写した古い写真をお見せしながら、ひとつずつ、少しずつ、おしゃべりしました。
 佳代さんは、里枝子さんの初代盲導犬キュリーのことや、森先生の写真には特別な関心を示されました。
 でも、私がいわさきちひろの「ぶどうを持つ少女」の絵柄のマグカップをお土産に渡すと、“自分はすっかりわからなくなってしまって、あなたになんのお返しもできないから、そんな儀礼的なことは、もうなしにしましょうよ”という意味のことを懐かしい金沢弁で繰り返し、困った表情をみせました。そして「荷物が重そうで大変だ」「今日はどこに泊まるのか」としきりに、私の心配ばかりしてくださるのです。
 帰り際には「また元気でお会いしまっし」とにっこり微笑んで、わたしの手を握ってくださいました。あたたかくてふっくらした少女のような手のひらでした。
 年齢を重ねてもなお、凛とした表情、こまやかな気遣いは、初めてお会いした60代の佳代さんのままでした。

「閑」の文字



 翌日、私は野田山霊園に先生のお墓参りに行きました。
「閑」の文字が彫られた端正な墓石は、杉の大樹に囲まれ、あたりは森閑としていました。はるか遠くに小さく海が見えます。森先生が北鉄労組の書記時代に深く関わった「内灘闘争」ゆかりの内灘海岸でしょうか。ここを永眠の地に選んだ森先生の思いが強く感じられました。

 そういえば、森先生はとても愛妻家でもありました。かつて私たち学生に奥様のことを話されるときは
「僕のFrau(フラウ)は」
と少し照れたような笑みを浮かべるのが常で、たとえば
「一度も社会に出た経験のない女性だけれど、ものの見方は非常にリベラルで公平。時にハッとするような意見をいう人」あるいは「一度こうだと決断したら彼女は迷ったり後悔したりしなかった。僕はずいぶん助けられたのです」
というふうに、佳代さんの人格を認めておられました。
 私の育った家庭環境にはなかった「夫婦の対等な関係性」「穏やかで知性的な会話」に、いつも私は驚かされたものでした。私の中の理想の夫婦でした。

 佳代さんの訃報を聞いた時、少し不謹慎かもしれませんが、私は、悲しい寂しい気持ちはごくわずかで「いまごろおふたりは再会を喜びあっているに違いない」としみじみと嬉しく感じたのでした。

「あんた、ごはん、たべたんかいね?」あの日の佳代さんの優しい声。
「僕のFrauは…」森先生のジェントルマンでハスキーな声を、懐かしく思い出しながら、おふたりが静かに眠る野田山のお墓を近々きっとお訪ねしたいと思っています。

 ご長男様からのメッセージには、「父母は、長野大学の教え子の皆様との交流を、いつも楽しく話して聞かせてくれました。父母に賜りましたご厚情に改めて深謝し、お礼申し上げます。なお、香典、供花、供物などはかたく辞退させていただいております。」と書かれていましたことを追記させていただきます。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

写真は遡ること32年前の夏、
金沢のご自宅前のものです。
右上から森直弘先生、佳代さん、私の長男、私。
左下から私の長女、里枝子さんの次男さん、長男さん、里枝子さん、初代盲導犬キュリーさん。
子連れ、盲導犬連れで2泊もさせていただきました。
その節は、萩子様にも大変お世話になりました。
ありがとうございました。

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