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おんぼらぁと(前編)


おんぼらぁと(前編)


初夏の内灘海岸


 (2009年)5月2日の内灘海岸には、翌日の大凧祭りのためのテントが設営されていました。浜辺に人の姿は少なく、時折、頭上にモーターパラグライダーが横切っていくくらいでとても静かです。砂防林のニセアカシアが蒼い薫りをしたたらせて満開のはず…と思い込んでいたけれど、どうやらそれはもう少し進んだ夏の記憶だったようです。
 日が傾いて、日本海に光の道が現れて、そして夕暮れてゆくようすを飽かず眺めています。
 「休んでるんだなあ。親友と遠くまで旅をして、再びこの場所に来られたんだなあ」という歓喜が体いっぱい染み込んでくるようです。

 「父が亡くなって7ヶ月。私は自分でも思いがけないほど、軽く、自由になってるの…」隣に座る里枝子さんに、ちぎれ雲のような思いを私は口にする。
 「…父の死は私にとって耐えられないほどの悲しみに違いない。仕事ができなくなるくらいに落ち込んでしまうかもしれない。夫との間に深い傷を残してしまうかもしれない。と、以前からかなり深刻な想像をしていたのだけれどもね…。
 ふいに淋しくて泣いたりもする。もっとできることもあったはず、してはならないこともあったはず、どうしようもなく悔やんだりもするけれどもね…。
 それに献体先の大学病院から遺骨が帰ってくるのは来年の春だし、相続のこともまだ方向性も見えてなくて、遺されたみんなが父からの難しい宿題を預かったまま途方にくれているんだけれどもね…。
 父はずっと苦しんでいたから、からだの苦しさだけではなく、魂のあまりの痛みに声にならない叫びを上げていたから、そして独りで耐えていたから、私はそういう親をずっと見ていることが苦しくて切なくてならなかったの。
 死んで、イノチがほどけて、苦しみや悲しみが空に溶けていく様子をイメージしながら、“ありがとう、最期まで生き抜いてくれて。どんなにか苦しかったでしょうね。もう苦しくはないよね、おとうさん”と、呼びかける。
 そのとき、私も父の抱えていた苦からやっと解放されたのだと思えてね。身勝手だけれど、軽く、自由になっている今の自分を許してあげたいのよ…。」
内灘の海の波音にうながされるようにして、とりとめもなく話していました。

父の看取り

 父は、東京女子医大で片方の腎がんの全摘手術を受けましたが、術後インターフェロン治療の副作用が強く出てしまい衰弱して、平成20年のお盆に埼玉県立がんセンターに緊急入院しました。
 しかし主治医からは“ここは専門の治療をするところで看取りの場所ではない。緩和ケアを希望されているようだが認知症があると緩和病棟には入院できない。早い時期に転院を…”といわれてしまいました。
 市内の総合病院に看取りのための転院をしてからは、意識も一層にごり寝たきりになりました。痩せた蛙のようにベッドに拘束される日々でしたが、9月15日、父は私たち姉妹と甥に、明瞭なことばと鋭い眼差しで遺言のような強い意思を示したのです。
「食を断つ」「終わりにする」
「死んでいく年寄りにかまうこたぁねえ」
「(研修医の孫に)大事な仕事があるんだから早く帰れ」
「無理しちゃだめだよ。無理はしないがいいよ」
「このまま ここで いくよ」
「(孫たちに向かって)おめぇらにはでっけえ希望があるんだから…挫けるな!」
衝撃だった。仁王立ちの父親がそこにはいました。
母の自死に続いて、跡取り娘を膵臓がんで亡くし、それでも孫たちの学費のために働き続けた父。苦悩の晩年でしたが、父は最期まで父のままでした。

米焼酎『おんぼらぁと』


 里枝子さんと私は、内灘駅から北陸鉄道浅野川線で金沢市街に戻り、ホテルの近くの加賀料理「よし久」へ行きました。カウンターで、ツツジの花や若緑色のモミジが添えられた目にも鮮やかな海の幸に舌鼓を打ち、たくさんある銘柄のなかからいくつかお酒も味わってみました。
石川県産の米焼酎『おんぼらぁと』もそのひとつ。
「おんぼらぁと食べていくまっし」
「おんぼらーとしとったらいいが」
などのいいまわしの、このあたりの方言で、“ごゆっくり、ゆったりとくつろいでいってください”の意なのだそうです。
 20年前に、それぞれの子どもたちを連れて金沢を訪れた時のことや、今に至るまでのお互いの時間が浮かんでは流れ、旅のひと夜は“おんぼらぁと”に更けていきました。

卒寿のお祝い


 翌日は、恩師である(故)森 直弘先生のお宅に、奥様の森 佳代さんをお訪ねました。佳代さんの米寿の年に新宿でお会いして以来で、このたびは卒寿のお祝いを兼ねての再会です。
 松井田の友禅染め作家・永井與子(ともこ) さんの、世界でひとつの染物である青紫の繊細なショールと、テッセンを大胆にあしらった手描きの日傘の贈り物は、内田 康子さんのお見立てです。康子さんは直前に体調を崩して、同行できなくなりとても残念でした。
 タクシーで着くと玄関へと続く石段の前で、連休で帰省しておられたご長男夫妻と、お孫さん夫妻とひ孫のかれんちゃんが、佳代さんと一緒に出迎えてくださっていました。かれんちゃん(ふたつ)とネルーダさんは目の高さが一緒です。にこにこして手を伸ばすしぐさのかわいらしいこと!

 学生の頃から数えますと、森 先生宅を訪ねる金沢の旅は10回を超えると思います。そのひとつひとつが忘れ難いのは、大きな節目の迷いや決断の時に訪れているからであり、森 先生ご夫妻が私を30年以上にわたって見守り続けてくださったこと、そして、私も文集を編み続けるというかたちで、途切れることなく心を寄せ続けたこと、そこに奇跡のような絆が結ばれたのだと、私は確信しています。

 佳代さんに問われるままに子どもたちの近況を報告し「こどもの自立が、親にとってこんなにも肩の荷がおりるものだとは思わなかったです。」と答えましたら、
「よくやってきたわよ。」と佳代さんは真顔でねぎらってくださいました。そしてお嫁さんの萩子さんのほうを向いて、
「それなのに、この人は、自分には価値がないと思っているのよ。」というのです。
 私は涙があふれてしまいました。悲しくて、ではなく、核心をズバリと言い当てられたからです。
 “自分には価値がない。価値が低い”という思いが、私の不安や自信のなさの根っこなのだと…。

認められる喜び


もうひとつ、ハッとしたことがありました。
「森先生は、よいところを見つけて褒めてくださった。」と私が言ったとき、
「褒める、のではなくて…」と佳代さんはさりげなく言い換えました。
「褒める、のではなくて、あの人は、認める、のよね。」と。
一瞬でことばを吟味して率直に修正してくださったのです。

 「褒める」と「認める」は、似ているけれどニュアンスが違います。私はまさに森 先生によって「認められる喜び」を体験し、そういう喜びこそが生きている喜びだと気づき、「認められたい」と願い続けたのだと思います。
 結果や成果に対して褒められるのではなく、愚かさや弱さも含めて、深く確かに、忘れ難い人間として刻まれたいと…。
 こう書きますと、ずいぶん無謀な願いを求め続けたものだと、我ながら欲の深さを恥じますが、それはいまに至っても変わらない、人との関係を結ぶ上での、私の根源的な願いなのかもしれません。

語源は「み」て「とめる」


 帰宅してから、先生の著書『続 人・この尊きもの 差別されることの辛さ』(金沢福音館 1989年3月発行)のなかに、認めるということばをめぐっての記述がありましたので再読してみました。

《私は先ほど「認める」という言葉をつかいましたが、この言葉をしらべてみますと「み」て「とめる」、が語源のようです。相手の眼を「見て」目をそらさず「止める」という関係をつくることばです。(P-117)
「認める」という言葉をめぐって、あれこれのことをいってきましたが、これを整理して見ますと、人間を「無視」(存在を認めない)すること、そして「下」にした認め方が、最もいけない、望ましくない形です。人をのけものにする、遠ざけることにもつながるのです。のけ者というのは、相手を蟲けらのような扱い方をすることでしょうし、人間としてみとめないということです。
また、いつでも憎しみや蔑みをもって人間関係をつくるのが「差別」というものの実態であります。(P-121)》

 森 先生はこのように、言葉ひとつひとつ語源や背景にこだわり、検証と自省をくりかえして発言しておられました。佳代さんは先生の著作の校正をしておられました。佳代さんのものを見る目の確かさと鋭いセンスに信頼を置いていると、先生からお聞きしたことがあります。
 だからでしょうか、おふたりの会話には、ねじ伏せるような威圧的な感じや、投げやりな感じがなく、尊敬で結ばれている印象なのです。といって、かたくるしくなくユーモアがあるのです。訪れるたびに私はそのことがとても不思議でした。

 居間でお茶をいただいてから、3人と盲導犬のネルーダさんで出かけました。佳代さんの案内で彦三緑地の牡丹を愛でて、浅野川のほとりを歩き、壺屋本店壺亭で治部煮膳をご馳走になり、佃煮や和装小物のお土産を選び、兼六園の横を通って金沢城址を散策しました。
 観光客であふれる一角を避けて、風情ある細い路地を抜けていく佳代さんの足取りは、90歳とはとても思えない軽やかさでした。

 心に深く残る、いい旅ができました。

 父の死から精神的に解放され、どこからかムクムクとソコヂカラが湧いてくるような。「私はわたし。この私のままで生きていく」という開き直りが生まれてきたような。意思だけでも偶然だけでもない、なにかの力が働いているような気がしています。

 ところで、「おんぼらぁと」には、“愚図でのたりのたりしているようす”という皮肉な使われ方もあるらしい。
 私は以前、「とろい」と哂われて傷ついた経験がありますが、もうそれもだいぶ、だいじょうぶになりました。身体はきしむし、不況で仕事の先が見えません。姑の介護が現実味を帯びて「同居もあり」と覚悟しました。そんな今だからこそ、軽く、自由でありたい。

おんぼらぁとのこころで50代を乗り切っていきたい。

“ゆっくり”と“とろい”の両方を持ちあわせている度量の大きい「おんぼらぁと」は、もっか私の理想の境地なのです。

                 「もらとりあむ 26号 夏草」掲載

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