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父の手記「私の履歴書(1)」 

父の手記「私の履歴書 (1)」

はじめに

「暁の闇 (前編)(後編)」に書きましたように、私の母は、私が38歳の時に突然失踪し、50日目に荒川の岸辺で帰らぬ人となって発見されました。
状況から自死と判断するしかありませんでしたが、遺された家族は理由もわからず、戸惑い、嘆き悲しみ、途方に暮れて闇の中にいました。

そんななか、私と父は、何度か往復書簡をしました。
寡黙な父が語る言葉はつらく重かった…。
けれど、私には命綱のようにも思われたのでした。

父の手記を現代の感覚で読みますと、倫理的に相入れない部分や差別的な表現も見受けられるかと思いますが、原文のまま掲載します。
大正・昭和の貧農という時代背景が生んだ言葉と、お許しいただけたら幸いです。(ツムギ)

家運復興の望みを託されて

    岩﨑一雄


 
 昭和四年六月八日生まれの私を、祖母さだは「この農っぱずし野郎が」と言いながら子守りをした。百姓のもっとも忙しい、猫の手でも借りたいと言う農の五月、つまり田植え時に生まれたから母親は田植えができない。
 そこで農をはずした男の子という意味なのだが、長男である私をこよなく可愛がった。
 それには祖母さだの前二代もさかのぼって見なければなりません。

 おなつさん、お可年さんと二代婿取りが続いた。おなつさんは気前のよい人で、困った人には自分の物を分けあたえるような事から、昔より相当あった田地もほとんど手放してしまったと言います。
 おなつさんの夫は、一ツ木西の堂の宇之さん、通称宇之綿屋から婿入りした久衛じいさん。その子供のお可年さんの夫は、地頭方五反田の木島家から婿入りした喜八じいさん、通称喜助さん。
 そのお可年さんが、年若の四十三才、父久衛より五年、母親なつより九年も早く亡くなっています。
 下世話にも「男後家には蛆がわく、女後家には花が咲く」と言いますが、若後家となった喜助じいさんは、北小学校の前身である一ツ木学校の小使いとなる。小学校に学用品を売るのを文具店から依頼されていたので、その歩合給も入り、金には不自由なく、一人暮らしから贅沢をし盡くし、米のお粥に豆腐のどじょう汁で晩酌し「田地三町持った大地主でも、おれのまねはできるめい」と言って煙管の羅宇ごろしをたたいて口三味線。お染久松の義太夫は名調子だったとは、当時を知る人の語り草だが、その半面家族は赤貧のくらし。
 父・梅太郎が子供の時、冬の朝、校庭で朝礼の時に皆の足元を見ると、脚半を付けていないのは、梅太郎と喜衛門さんの二人だけだった。
 寒さのがまんはできるが、皆の中の自分の素足を見るのは、はづかしく又、なさけなく、そのがまんが大変だったと後年述懐していた。

 貧しさ故に宅地も他人に抵当として金を借り、後に金子(キンス)ができたので宅地を返してもらいに行ったらその時はすでに売買登記されてしまい、地頭方の新しい小学校の敷地の価格なら売ってもよいと言われ、止むにやまれず先方の言い値で買い戻すはめになってしまった。
 母・みなが嫁入りするとき蚊斗谷の実家よりもらってきた小使銭で、登記の際の茶菓子代として使ってもらうよう出したと言っていました。
 このようなことから祖母がよく「洗浄場のうじ虫から縁の下のくもの巣まで一のもんだ(一雄のものだ)」と口にした。祖母さだは、孫の私に家運復興の望みをかけたのかも知れない。
 祖母と一つ布団に寝ていて朝早く起きてお茶を入れてあげるのが私の仕事。そしてお茶菓子がもらえるのも朝の楽しみ。だが祖母は短命で、六十二才、私が小学校二年生の時他界した。私をより可愛がりみかただった祖母と別れ、その後はつらい毎日を記憶している。

 さて、姉のかねについてふれてみよう。
 祖父・相太郎は、母親・可年から早く死別されているので、母の愛を孫に託すという考えからか、母親の名前をもらい「かね」と命名した。
 そのためか、初孫のためか姉を溺愛した。姉には、欲しがらなくとも学用品から日用品に至るまで先に買ってやり、学校の机の引き出しに入れてやるが、私が必要品でも買ってくれと頼むと「おじいさんも今お金がなくってなぁ」と言って希望する半分位きりもらえなかった。
 早くから祖父母は別居していた位だからか、又祖母が気性が勝気だったからか、子供心にあまり夫婦仲がよくない様に思えた。その爲かどうかはわからないが孫まで分け隔てされたような気がしなくもない。

 その頃から私は、子供友達の遊びにも加わらず、父母の仕事を手伝った。手伝をしてほめられると仕事が好きになった。好きこそ物の初めなりと言うように、仕事も上手になる。幼いながらも吾が家の一員として頑張った。もちろん姉もよく父母の仕事を手伝った。学校の成績も、私より格段に良く、何時も一番で通ったようであった。

 祖母・さだは、器用な所から俗に言う取り上げ婆としてお産の手伝をしていたが、大正中期より制度がきびしくなり、産婆の資格がないとできなくなった。そのため四十の手習いと言うが勉強を重ね、斎藤医院にて勉強をし、名前ですら漢字で書けなかった位だったが努力の結果、産婆看護婦の国家試験に合格し、良い給金とりとなった。が、その爲子供達は皆若くして他に奉公に出ざるをえなかった。
 父は、木村の原さんに作男として奉公するため、小学校高等科を一年で中退し、本沢へ婿入りした叔父も小学校のみで小川町のうどん製麺所に年期奉公に出る。
 父は田植の時期には田うないや田かき等、馬の鼻取りをつとめた。原さんには兄貴分の恩田平やんが居て、引っぱれのやれ突っつけのとさんざんいぢめられたと言う。
 原さんの主人一家のことを「お上のひと」と呼んでいたそうだが、その冷や飯が馬のえさに、馬方には引き割りめしのむすびが、それぞれ小時飯として出たが、お上の人の米のめしの残飯は二人で食ってしまい、馬にはくれなかったそうです。
 又、茶うけとして、梅の実としその葉で大根を漬けた赤漬が、とてもうまかったと言う。晩年、この時期になると、父は自分で赤漬を作り、当時を忍んでは「あの時のにぎりめしはうまかったなあ」とよく言っていた。

 今ではとうてい考えられないことだが、子供が奉公して親が勉強した。これでは子供が伸びられない。時世時節で止むをえまいが、今、考えるとどうもよい結果とは思えない。そうしたことから宅地まで他人の手に渡ってしまったのかも知れない。
 隣りの勝さんが「おばさんは半紙半分で多額な金がとれるんだからいいね」と言うと勝気な祖母は、「良かったらあんたも書いたらいいでせう」とやりかえすなど、いかにも祖母らしい所があった。今でも診療書料は高いが、昔でもこのような書類は高額だった。

 今、保存してある授産記録など見ると、如何に死産が多かったかと思う。当時の医療施設又は医学から見れば止むを得ないことと思うが、これは一種の優良皃保護の面から見れば必ず非とも思えない。故事には虎は山の上から子を崖下につきおとす。はい上がってきた虎の子だけを育てると言う。弱肉強食の世界に生き残るため、もっとも強い子孫を残すためこのような手段をとるのかもしれない。人命の尊厳からすれば否であるが、医学、化学が進歩する中、障害皃がふえることを思えば、本人はもとより家族の負担からしても、優生保護の面からしても、現代医学が必ずしも良いとは思えない。

 さて、話はそれたが、昭和十三年九月一日。私が小学校三年生夏休みが終わった朝、二百十日の日に、吉見町一帯に荒川の大洪水があった。
 吉見の上流、大里村、玉造り脇の堤防が決壊したので水が押し寄せるのが早かった。私の家は祖母が病気で、父が学校の小使の代理を努めていた。母は弟 ・啓二を出産してより産後の肥立ちが悪く、ねたりおきたりの毎日であった。
 台風の為、百目柿はおちてしまい、前の畑の両端のとうもろこしの木は倒れてしまい、かいどうが出られないようであった。朝早く起きて学校に父を迎えに行く。早く帰ってきて家の水始末をするように母より言い付かったので。雨具は大人用の蓑をきて行くのだが、所々が増水してひざ上までこす所があった。
 父は「もうすこしで学校の片付けが終わるからまもなく帰るよ」と言った。

    「私の履歴書 (2)」に続く



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