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生の確証を得る一つの縁

生の確証を得る一つの縁

初めての文集作り

「趣味は同人誌づくり」とnoteの自己紹介文に書きました。

現在も続いている「もらとりあむ」は今年53号を数えました。年に2回の発行ですので26年以上継続している計算になります。初刊当時、保育所に行っていた娘がもう30歳なのですから、長い長い時間を共にしてきたわけです。

原稿を寄せてくれた人の数だけ製本するという小さな世界です。実名で投稿すること、プライベートなことも安心して書ける場であること、非公開である、という性質はずっと変わりません。
それだけに、振り返ってみると一冊の自分史のような分厚さになっています。同人どおしで感想を伝え合うことはないにもかかわらず、共に生きてきた仲間と感じています。

「もらとりあむ」の前に作っていたのは「ひとりから」と「どんぐり山」という子育て文集です。
月に一度集まって、母と子でワイワイご飯を食べて遊ぶ子育て仲間による合作。コピーした手書き原稿を人数分持ち寄り、その場でホッチキスで閉じた簡単な文集でした。子どもの成長記録や日々の雑感が中心でした。

「文集を作ってみない?」
言い出しっぺはいつも私。
一番愉しんだのも私だったと思いますが、同人の誰よりも手間暇を費やしたのも私でした。

なぜそんなめんどくさいことをやったかと言えば、森先生と約束した「書き続けること」が根っこにあります。書くことを自分の暮らしの中で途切れさせないために、言葉は悪いのですが、みんなを巻き込んだというわけです。

きっかけは森先生との出会い


大学1回生の必修科目に「基礎ゼミナール」があり、私が選択したのがたまたま、森直弘先生の「社会科学への道」でした。
そこでは毎週、400字詰原稿用紙2枚以上の作文の宿題が出されたのです。必死にマス目を埋めて提出すると、次のゼミで先生が、目にとまった文の一部を読み上げて講評してくれるのです。私は森先生に出会って学ぶ楽しさを知りました。先生の講義が聞きたくて、単位を取った後もずっと聴講し続けました。
そして3回生のときに、先生の許可を得て自主的に作った文集が「モラトリアム」でした。これが私が初めて企画編集製本した文集なのです。
当時はコピーではなく、手書きのガリ版(謄写版)印刷です。
藁半紙に一枚ずつ刷って、折って、閉じて…。
森先生はこの企画をとても喜んでくださいました。贈っていただいた「文集によせて」は私の宝物となり、その後の文集作りにつながっていったのです。以下、引用させていただきます。

文集によせて

森 直弘

 大学生活は自分史の中でたしかな一時期を画すものといえよう。

 その自分史にとっての一時代の姿をしかとしるすことは貴重である。だれのためでもない自分自身にとって貴重なのである。生きていたことの“あかし”としての記録は手離しがたい愛着をもってひそかにひめてもちつづける宝となろう。

 ただ、この時代の自己表現を、時を経てかえりみたときひどく稚拙なものであったと、気づくこととなろう。ぼく自身の経験にてらしてもそうだ。諸君と同じ年頃に記した文章のかずかずが、今も手元にある。読みかえしてみて、ひどく発想の稚さ、表現のつたなさのみが眼につく。誰に知られているわけでもないのに、読みかえすたびにどっとはじらいのおもいが面にあらわれるのである。だからといって、この書きしるされた文くさを葬ってしまう決心がつかないままである。

 諸君も気づいたであろう。ことばを文章にすること、それは自らの思想の表出であるがひどく精神の緊張をともなう作業であるということを。

 ことばをえらび、それをくみたてていく、ことばがいのちをおびてくる瞬間の感動をくりかえし味わったことであろう。が、その作業をまんまとしくじって、遂にほおり出してしまったこともあったであろう。しかし、そうしたことのくりかえしの中で、耐えることをしかと学びとっていったはずだ。

 諸君は妥協なく週一度強制されたに近いこの作業を“くるしい”とか“きびしい”とかいう表現で、それぞれのおもいを表白していた。ぼくはそれがよくわかっていたつもりだが、そしらぬ顔つきでくる週もくる週も、その作業をあたえつづけた。ぼくの当初の予想に反して、多くの学生諸君が最後まで辿りついた。ぼくは満足感にひたることができ、うれしい思いを味わった。それは今、ぼくがいきていて たえて味わいえなかった深いよろこびであった。

 さて、諸君がくるしいという場合、それは精神の緊張に対する自己との格闘の中から感じとったものであろう。が、くるしむことは、生の確証でもあることだから、たしかな手ごたえのあるいとなみであったにちがいない。

 この生の確証を得る一つの縁をあたえることがぼくの“仕事”であった。

 くるしみをともなうこの精神の緊張は、この基礎ゼミに集う学友の共感しえた唯一の事実であった。諸君のうちのなんにんかは、このくるしみを共同体験してくれた。ゼミとは、確立されたかに見える形式に従うことでなかろうとぼくは自信をえた。

 少し誇張していえばぼくと諸君との間で形成された精神のコミューン(共同体)、それがこの基礎ゼミであった。

 この文集は、この精神共同体の存在のあかしということであろう。


1979年11月15日 「モラトリアム」


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