"美"とは

何故か最近、美しいや、綺麗という類の言葉をかけられる。その事自体はとても良いことであって、嬉しい。確かに嬉しい。

皮切りは病院だった。母の見舞いに行った際に、看護師さんと同じ病室のおばあちゃんに綺麗ねぇ、と言われた。その日着ていた服か髪型が良かったのだろうと思っていた。実際に自分は容姿としては凡人だ。凡々人。

次はSNSだった。名前も容姿も年齢も性別も、何も出していなかった。気に入った自分の名前に、好きな写真、それだけ。ただ、言葉を綴っていた。毎日。仲の良い人もできた。その"仲の良い"が何を基準としているのかは分からないが。そこでひたすらに綺麗だと、美しい言葉を紡ぐと言われた。特に気に入っていた、というと上から目線に聞こえるが、気心知れた人には面白い、と言われた。面白い、の方が嬉しかった。それは自分が自分の美的感覚の中で綴っていた言葉は、面白さを含んでいたい、という願望があり、そのことを認めて貰えたような気がしたからだ。

そのアカウントを消した。特にお気に入りだった人との感覚の違いが原因だった。自分の中で美しくない、相応しくないと思っていたものを、その人は大切にしていたのだ。そのものを否定したい訳では無かったが、いつの間にか理想を押し付けていた。ただ、それを持っていたのは、自分と出会う数日前からだったようだ。一ヶ月にも満たない。もしかしたら、羨ましかったのかも知れない。美しさを基準に綴っていた言葉は、意図も容易く崩壊した。公に、その人の前で言葉を出したくなくなった。ただ、今もその人の言葉を覗きに行く癖ができた。きっと向こうも此方を見ているだろう。

その後、新しいアカウント、新しい名前に新しい写真ではじめた。そこでも美しいだの綺麗だの言われる。言って貰える。この言葉は、果たして誰に向けられているのだろうか。美的感覚は捨てられない。

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