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「思い込んで」(嘘も百回言えば真実になる)#1/2──安倍晋三銃撃事件

以下は、7月25日あたりに書き始めて、なんだかんだでしばらく中断し、8月11日現在も書き終わりが見えないため、とりあえず前半(#1/2)として上げておく。


メディアによる「思い込んで」の連呼

具体的な事例(確認できた限りにおいて)

過去のnote「メディアが権力に屈したら、国家は国民を虐げる──安倍晋三銃撃事件」で、安倍元首相銃撃事件の報道で頻用される「思い込んで」という表現について書いているが、この文言を、ごく最近のニュースでも目にして、驚かされた。網羅的にチェックしているわけではないが、目についたものについて追記しておく。

7月24日、25日現在も、関西テレビは「思い込んで」を容疑者の供述の一部として報じている。

7月8日に逮捕された山上徹也容疑者(41)は、母親が入信している宗教団体「世界平和統一家庭連合=旧統一教会」に恨みを持ち、「安倍元総理とつながりがあると思い込み犯行に及んだ」と供述しています。

安倍元首相銃撃 容疑者『母を恨んでいる』警察が自宅を再捜索」、関西テレビ、07月24日18:45

山上容疑者はこれまでの調べに対し、母親が入信している宗教団体「世界平和統一家庭連合=旧統一教会」に恨みを持ち、「安倍元首相とつながりがあると思い込み犯行に及んだ」と供述しています。

山上容疑者 『鑑定留置』で大阪拘置所へ移送 11月29日まで 刑事責任能力を調べる 安倍元首相銃撃」、関西テレビ、07月25日12:28

さらに日を経て、これもテレビ画面をぼんやりを眺めていたときに見逃しそうなところで目に留まったものだが、7月29日の「news zero」でも、旧統一教会(現世界平和統一家庭連合、略称: 家庭連合またはFFWPU)の問題を扱ったVTRの最後に、容疑者の動機について「──つながりがあると思い込み──」という字幕とナレーションが入れられていた。

「思い込んで」の出所

メディアは、この「思い込んで」や「思い込み」という表現を、どのような意図で使っているのだろうか。元を正せば、これがどこから出てきた表現であるのかについて自覚的なのであろうか。この表現は、事件当夜の奈良県警による記者会見の場で弁解録取書からの抜粋として出てきたものである。

繰り返しておくが、その事件当夜の奈良県警による記者会見でのやり取りを踏まえられれば、「思い込んで」が容疑者の供述に出てきた言葉などではなく、容疑者の認識について県警が独断した言い回しであることはほとんど明らかである。「ほとんど明らか」という言い方は少し明確さを欠くかもしれないが、そもそものやりとりや説明自体が曖昧なものであり、この程度に落とし込んでおくほかない。しかし、文脈や状況を踏まえると、明らかだと断言できるものである。

容疑者が安倍元首相と旧統一教会につながりがあると「思い込んで」いたとしながらも、肝心の事実関係についてはこれから捜査するとの意味不明な説明をしている奈良県警は、少なくとも会見時点では全く根拠を持たないまま、そのように(本来できるはずもない)断定をしたことになる。全ては容疑者の思い込みであるとしたいらしい県警と、「思い込んで」を容疑者の供述の一部として報じ続けるメディア(もはや単なるスピーカー)の協演を延々見せられている思いである。

「思い込んで」理論の破綻

ところで、容疑者が安倍元首相と統一教会につながりがあると「思い込んで」いたとする県警の説明は、教会の関係団体であるUPFの大会に安倍元首相が好意的なビデオ・メッセージを寄せたという確認可能な事実がある時点で、ほとんどただのファンタジーに堕している。(なお、教会側は、教会そのものとUPFを別個のものとして距離があるように説明するが、統一教会の教祖がUPFの主体的なトップであり、物理的な拠点も同じである以上、これも詭弁に過ぎない。特に信者にとってはどう区別できるというのか。)むしろ、全ては容疑者の思い込みであると敢えて思い込むことにし、メディア(スピーカー)を通じて世間にそう喧伝したい県警であるが、あいにく時間が経つほど、そのつながりは時代を遡って岸氏の頃からの根深いものであることが具体的な証拠とともに明らかになってきている。

「論理の飛躍」の登場

もはや「思い込んで」いるという表現の枠には収まりきらず、今度は、本来、教団関係者を標的とすべきところ、安倍元首相にその矛先を向けたことを「論理の飛躍」と表現し始めたが、それも論理破綻している。容疑者は、実際に教団関係者を狙う行動を起こそうとしながら、物理的に不可能だったと供述していることが報じられているほか、教団の、日本での起点に立ち返れば、そこに岸氏にまで遡る安倍家に代々受け継がれた教団との強い関係が厳然と存在し、単に存在していると言うにとどまらず、昨年(2021年9月)のUPFへのメッセージに代表されるように、安倍元首相は、教会や信者、さらには今こうして眺める一般人の目にも、教会に対してお墨付きを与えるに等しいと映る行動を取っていたと言える。一国の総理大臣を務めた人物が象徴的に果たす役割や周囲への影響は、小さいものであるはずがない。

「論理の飛躍」理論の破綻

何かを悪だと思う時、その何かの存在が既に強大なものであれば、時間を遡ってその芽を摘みたいと考える発想は別に珍しいものではない。フィクションの筋書きとしてはすり切れるほど繰り返し使われてきた手法だし、実際の歴史を見ても、そんなふうに悲劇を回避できたらと思うようなことはいくらでもある。現実に過去に戻って歴史を変えることなどできるはずもないが、巨悪が成立した根源というものがあり、その過程に強力な影響力を発揮した他者が存在するのなら、それを探ってそこに少なくない責任を見出すという発想は理解できないものではない。そしてその影響力が連綿と引き継がれている事実を知れば、今まさに影響力を受け継いでいる存在(人物)に非難の目を向けることも全く不自然な話ではない。

これは容疑者の行動を擁護するものではない。ただ、「論理の飛躍」とまで言う捜査当局に対して、何をもってそう言うのかという純粋な疑問である。容疑者の憎しみの変遷に矛盾があるようには思えない。

それが現実に殺人の実行を決意させるかどうかは全くの別問題であるが、容疑者には、そうすることが必要だと思うだけの理由があったことは、少なくとも現時点までに報じられている供述の内容と容疑者の周辺から聞こえる事情などに矛盾は感じられず、そのまま受け取ると、全く想像に難い話ではない。単なる憎しみの発散や恨みを晴らすことが目的なのではなく、自らが悪だと考える存在の影響力を、これ以上未来に先延ばしすることなく、現実的に可能な範囲で最大限に断ちたいと考えたということだ。

それは、容疑者が犯行前に、旧統一教会に批判的なブログを運営するジャーナリストの米本和広氏に送ったとされる手紙の中で安倍元首相を評した一文からも読み取ることができる。逡巡しながらも、現実的な影響力阻止を図りたい心情が窺える。

苦々しくは思っていましたが、安倍は本来の敵ではないのです。
あくまでも現実世界で最も影響力のある統一教会シンパの一人に過ぎません。

米本和広氏(ジャーナリスト)に宛てた容疑者の手紙から抜粋

影響力の仕組み

教会と政治家(自民党)の互恵関係

影響力とはなんだろうか。多くの人が今回の事件まで認識していなかったように、この宗教団体と、自民党議員を中心とする少なくない数の政治家とのつながりは根深いものであり、完全な互恵関係にあった。政治は人の暮らしのあらゆる側面に関わりがあり、しかもその影響は根幹に関わるものだ。政治家は、権力の立場から教会に便宜を図ることが可能であり、関連団体のイベントに主催者側あるいはゲストとして参加、関与するというそれだけで、信者にとっての関連団体がその名称や形態を多様に使い分けていようとも協会と根本を一にする存在であることを考えれば、教会に対して実質的な箔付けを行ったことに変わりはなく、政治家としての影響力を行使して教会に力を貸したことになる。ましてや教団特有のターム(用語)を恭しく口にしながら、教団トップの名前を連呼し、これを上げ奉るような弁を述べるなどということは(福田赳夫元首相あたりの先例に倣ったか、単に滑稽な太鼓持ちかは知らないが)、冗談にもならない。

政治家側の思惑

政治家が国民の代表という立場にある限り、自らの行動について知らぬ存ぜぬは通用しない。まして政治家個人の選挙の成否を握る存在が特定の、しかも社会的に問題を多く抱える一団体であることを自らの利とする理屈は、そもそもの本義を逸脱している。それはむしろ国民にとっての不利益であるということを、政治家本人が自覚していないかのような態度を隠さないことにも驚かされる。自ら積極的にその団体を頼みとし、伊達忠一前参議院議長が平然と漏らしたような選挙の実情(「【前参院議長の告白 完全版】伊達忠一氏 安倍元総理に旧統一教会票を依頼」、HTB北海道ニュース、2022年7月28日23:35)を始め、安倍元首相がその組織票の差配役であったらしいことを裏付けるような話も見えつつあるが、この人物に依頼して、特定の候補者の当選を組織的に画策するということは、国民の利益に相反する。

なるほど、森喜朗元首相が、有権者は「寝てしまってくれればいい」と言ったわけである。出来レースのためには、自由な意思で投票する有権者が少ない方がよく、確約された票が希釈され、当選確率が読めなくなる事態を回避したいからである。投票率の低さは、特定の団体と強力なつながりのある党(あるいは強力なつながりのある個人を多く擁する党)にそのまま有利に働く。投票率の低迷を民主主義の理念から程遠いと嘆くのではなく、むしろ、それによって一党独裁が自然と実現される状況をもはや隠そうともせずに望むのである。その一党独裁も、関係の深い教会にとっては、信者で構成する票田を餌に触手を伸ばし続けることで、自らの分身のように影響力を発揮できるものとなる。

政治家の言葉の拙さ

このようなことを、自分は関係がないから何が問題か分からないと薄ら笑いを浮かべて強弁するのが、文鮮明と晩餐会を共にした福田赳夫元首相の孫にあたる福田達夫自民総務会長(当時)である。あれほど高圧的な話ぶりで、個人と党それぞれの立場の話をないまぜにしつつ独自の理屈をまくし立てておきながら、あらゆるところからの批判が高まると、その日の夜のうちに釈明コメントを出す姿勢は醜悪だ。自分は関係がないと言って暗に教会の票などは必要ないということをひけらかしたいこの人物は、祖父と父に元総理大臣を持つ3世議員である。

政治家の言葉の軽さは、その政治家の能力そのものでもある。議論や取材の場で敢えて砕けた口調で物事を言うのは相手を懐柔したい、矛先をかわしたい心理の表れ以外の何物でもなく、まともに話せない時点で資質に欠ける。そんな時には当然のように失言が繰り出されて周囲を唖然とさせもする。後は何ができるか。頃合いを見計らって釈明コメントを出したり、人前に出ざるを得ない場合は、メディアから逃げ回るか、誰かに用意してもらったフレーズを呪文のように唱えてやり過ごそうとしたりするのみである。

なお、このフレーズというのは汎用性の高いものがいい。そうでなければ、山口壮環境大臣(当時)の8月8日の会見のように、記者からのあらゆる質問に対し、「今後は気をつけたいと思います」を繰り返す壊れたレコードを演じ、噛み合わないやりとりに終始せざるを得ない事態に陥る(本人は素晴らしい返球でその場凌ぎを成功させたと思っているのかもしれないけれど)。

容疑者の殺意の対象

殺すことが必ずしも最大の責めではない可能性

一部の人は、容疑者の殺意が、家族を困窮させた自分の母親ではなく、政治家である安倍元首相に向けられたことに疑問を持っているらしいが、これはあまりに短絡な物の見方と言えるのではないか。今回の銃撃という結果のみを持って、容疑者がやはり母親に対してはそこまでのことを実行できなかったとの考え方のようであるが、果たしてそうだろうか。容疑者にとって母親は、家族に残酷な暮らしをもたらした張本人ではあるが、容疑者が抱く憤りのもう1つの対象である教会にとっては末端の一信者に過ぎない。母親を殺したところで、憎むべき教会には何ら影響が及ばない。

教会に致命的な一撃を加えたいと考えるなら、その最たる手段は何だろうか。教会のトップを狙うことが不可能であれば、次善の策として、教会を外部から権威付ける最大の存在の根元を断つこと、しかも公然と事件を起こすことで、波及的に教会の実態を白日の下に晒し、一般の批判に委ねることもできる。母親に対しては、その過程で、容疑者自らの行為の結果を知らしめることになる。仕打ちとしては、殺すことよりも過酷なものになり得るのではないかとも思う。

事実、母親は事件後、教会に対して申し訳ないという心情を口にしているという話がある。これは、マインドコントロールの恐ろしさを表しているというよりも、容疑者が切実に狙った効果だと考えることもできる。母親に大きな責め苦を負わせたいという気持ち。実の子供である自分が、教団と深く互恵関係にあった大きな存在を抹殺するという重大な意味は、どれほど時間が経とうとも、その犯行動機の中心にあった教会に深い信仰を寄せ続ける母親には一生贖いようのない出来事だということである。母親自身の信仰が事件の要因であるということ。この苦しいジレンマの中で生きていけと、さもなくば、これまでに捧げてきた莫大な時間と多額の献金にも拘らず、もはや居場所も見出せないだろう教会を去らざるを得ないのではないかと、そういう選択を強烈に迫る仕打ちなのかもしれない。事件を起こした容疑者にとっては、後者への希望はもうとっくに潰えていたのだろうけれど。17年も前に遡る2005年に自らの命を断つことで家族に金銭的な支援を届けようとし、さらに今回の事件の前にも命を諦めようとしていたという話の聞こえる容疑者の、絶望は底を打っていたのではなかったか。

どこまでも曇った母親の目には何が映っているか

しかし、それが本当に容疑者の狙いであったかどうかは別にしても、残酷な可能性として、母親は、これを神から与えられた大きな試練と捉え、むしろこの苦しみが深く、耐えがたいほど、そこにさらなる生きがいを見出すということも考えられるのではないか。

たとえ教会に対して顔向けできないほどの立場に置かれたとしても、とっくに破産を迎え、今や微々たる額の献金しかできなくなっていたらしい母親には、むしろ旧統一教会問題の再浮上という教団の危機にあって、そのきっかけを作った容疑者の母という立場にある自分にこそ、なすべき教会への貢献があると考え、悲壮な息子から投げつけられた苦難を自ら進んで引き受けるかもしれない。

金銭的な貢献の面でほとんど無用の存在になりかけていた母親には、皮肉にも、こうして再び教会から注目を(それがどんな形であれ)向けられる存在になることが、むしろ喜びと感じられ、自らの存在意義を見出すよすがとなるかもしれない。

後半に続く予定

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