最近のできごと
数か月前、見逃した原爆関連のドキュメンタリーの再放送が日テレNEWS24の番組表に載っていたから録画し、後でゆっくり観ようと思いながら、しばらく見られずにいた。先日、ようやく落ち着いて観ていた時のこと、番組のちょうど真ん中あたり、被爆者と原爆投下機搭乗員のそれぞれの孫同士が熱心に話し合いを始めたところで突如、速報が入り、画面がスタジオに切り替わって、アナウンサーが記事を読み上げ出した。録画だから今起こっていることではないと知りつつ、いったい何事かと思えば、大谷翔平選手の移籍が決まったという話題だった。そんなことに興味はないんだが、ドキュメンタリーの続きはどうなるのかと思っていると、移籍の話が一通り終わったところで再び画面が切り替わり、元の番組に戻った。しかし、さっき画面が切り替わったところの続きの場面では、もはやなかった。速報を伝えていた時間分がそっくり欠落した状態で、ただ残りの部分を惰性的に見せられた格好である。数分間分が簡単に吹っ飛ばされたわけだが、それほど大事なニュースだったかねと、今も馬鹿らしい気持ちで思う。
こういう目に遭うと、つくづくメディアの人たちの報道機関としての自らの一義的な存在理由に対する自覚とはどんなものなんだろうかと思う。毎日、朝から晩まで1人のスポーツ選手の話題で持ちきりになり、もはやそれを枕にしないと話にならないほどである様は、報道機関全体が専属メディアかのようだ。この選手に限らず、何かの世界で活躍した誰彼のことをさも全ての人が知るべき大ニュースかのように大仰に取り扱って大騒ぎし、崇め奉っている間にすり抜けていく重要な事柄がある。どれだけ脇にやられた災害、戦争、政治の話題があっただろうか。スポーツは本当に素晴らしいものだが(自分もスポーツ好きなのだが)、あくまで娯楽に過ぎない。娯楽は、本当に重要な事柄に優先しない。芸能人のゴシップなんかも同様だが、この辺の線引きが今は異様に甘くなっていないか。
ついでに、先日の衆院選と同時実施された最高裁裁判官国民審査の参考に、予め各人紹介をいろいろ見ていたところ、NHKのアンケートの最初の問い「最近のできごとでうれしかったこと、腹立たしく思ったことは」の前者への回答として、大谷選手の活躍を挙げていた人が多いことに、ほかに思いつくことはないものかと冷めた気分になった。迎合的なのか、何なのか。
カンヌ国際映画祭公式ポスターに採用された『八月の狂詩曲』
今年4月、黒澤明監督の『八月の狂詩曲』がカンヌ国際映画祭公式ポスターのモチーフに採用されたことが発表され、併せてビジュアルも公開された。自分はこの映画が好きで、8月にはテレビ放映でもされたりしないものかなと思っていたが、特にそういう動きはなかった。映画館ではちらほらやっているようだ。
これは、アメリカの事情に(直接は)左右されず、直前にあったアカデミー賞授賞式でのジョナサン・グレイザー監督のスピーチに奮い立った、静かな抵抗の意思表示にも思えた。
ジョナサン・グレイザー監督によるアカデミー国際長編映画賞受賞スピーチ
震える手に持つ紙片の文言は、この瞬間までにいったい何度、推敲の重ねられたものだったのだろうか。わずか1分10秒ほどの簡潔さの中に詰め込まれた思いを思う。
日本被団協のノーベル平和賞受賞
10月、日本被団協がノーベル平和賞を受賞することが発表された。
広島市の平和教育と広島平和資料記念館
この4月と10月の2つのできごとは、広島市教育委員会が小学生向け平和教材からの『はだしのゲン』の削除、中学生向け平和教材からの第五福竜丸の記述の削除を決めた1年後のことである。
なにも広島や長崎の人たちだけに被爆の実相を学ぶ機会を背負わせる必要はない。唯一の戦争被爆国であるなら、日本全体として核の実相を自らのこととして学ぶべきだし、そうあってこそ国は世界の平和に具体的に貢献できる独自の立場を築くことができる。それでも、その土地に根ざした経験というものがある。その土地に暮らし続けている被爆者や家族という存在も大きい。直接の被害に遭い、あるいは被害を目撃した経験者や原爆遺物と触れ合う機会自体が多いということには、ほかにない強力な説得力を持つ。だからこそ、広島市は自らを平和記念都市としたのであろうし。
最近は毎年のように戦争体験者の減少が言われるが、体験の話し手は、それでも今も伝える活動を現に続けている。しかし聴き手の方はどうなのか。広島市教育委員会の、まるで理屈になっていない理屈(https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/202755.pdf)で、過去の惨禍に必死に向き合おうとする地道な営みを拒絶するかのような態度(どんな斟酌があったのかは知らないが)は、伝えようとする側の問題ではなく、受け手側の問題に思える。注がれるものに対してしっかりとした受け皿を持たなければ、貴重なものは溢れていくばかりであり、永久に失われる。
広島平和資料記念館の東館地下1階、特別展示室では毎日、講話が定時開催されている(https://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=148)。しかし、聴きに訪れる人が稀であるばかりか、そもそも講話が開催されていること自体を知らない来館者も多いという。来館する人たちの姿を目にしながら、いざ講和の開かれる部屋の空席の列を前にした時の伝承者の虚しさはと思う。
サーロー節子さん
日本被団協の平和賞受賞決定にサーロー節子さんが喜びの声を寄せたという記事に目を通した後、その記事のコメント欄に「これで飯を食っている人」というような書き込みがあるのを目にした。こんな感じの物言いはこの時に限らずよく見る陳腐なものだが、いったい何に対する敵意なのかと呆れる気持ちになる。あるいは虚勢なのか、冗談なのか、何かの主張なのか、どんなことを想像した結果、その言葉に行き着いたのだろうか。こんなことを言えるのだとしたら、もう世界に何が残るというんだろうか。こんな馬鹿げた物言いも、積み重なればゴミの山くらいの存在感は持つだろう。想像を絶する過酷な状況を生き延び、身体にも心にも癒えない傷を負い、心を守るために思い出したくもなければ、口にしたくもないような記憶を抱え、それでも、やり場のない憤りや苦しみを2度と惨禍を繰り返させてはならないという思いに変えて、必死に核兵器廃絶を訴えている。これが利己的なのか。軽々しく暴言を吐く人間は、はたしてこの世の誰を守りたいのだろうか。しかし、こんなのは子供の迂闊な書き込みなのかもしれない。だとしても、どこかで見た誰かの書き込みを真似ているわけだが。
よく思い出すある映画の場面
特に好きな作品というわけでもなく、ただ1度観ただけだというのに、なぜか記憶に残り、よく思い出す映画の一場面(いわゆる名場面というわけでもない、多分)がある。91年公開の『リトル・マン・テイト』の中で、ギフテッドの7才の少年を息子に持つシングルマザーの母親(ジョディ・フォスター)が、その子の胃潰瘍が治らないことについて「不発弾処理の警官だってもっとましな胃をしているよ」と言われ、こんなふうに応じた場面である。「あの子は沢山の心配事を抱え込んでいるの。世界中のあらゆる問題について、それから私のことも。抜けそうな歯のことだけ心配していればいいはずなのに」