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それ以外の何か、そこ以外のどこか。私は常に何を求め、どこへ行こうとしていたのだろうか?

2019年11月。

「本当の自分を生きる」
次女が33歳で天に召された時に、
降りてきたのはその言葉だった。

あまりに突然のことを
どう収めたらいいのか分からず、

そのことに
何らかの意味を与えることで
ショックを和らげようとする
自己防衛本能だったのかも知れない。

号泣や慟哭、
恨みつらみの代わりに、
降りてきたのはその言葉だった。

今の私って
どんな言い訳けでも
出来るんじゃないの?

子に先立たれた母親は
世界で一番可哀想な存在。

5年10年寝込んでも、
多少、非常識なことをしても、
不義理なことをしても許される。

実はその何年間、
私はこれから先の方向性を決められずにシンドイ思いをしていた。

これ以外の何か、ここ以外のどこか、
もっと高く、もっと遠く…
これじゃない
と常に現状を否定し続ける。

それが前進だと信じていた。

色んな事に手を出し、
沢山のグループに所属し、
周りに振り回された。

抜け出そうと思っても
どれを捨てていいか分からなかった。

もともと、場を汲みとって
人に合わせてしまうクセがある。
断わるのが苦手。

そんな悪癖を絶つ
絶好のチャンスじゃないか!
と思った。


彼女が身を投じて作ってくれたのなら、
このチャンスを使わないと申し訳ない気がした。


もうこれからは
自分の魂が喜ぶことしかしない
と決めた。

好きか、嫌いか
したいか、したくないか
で決めよう。

「本当の自分を生きる」
それが彼女が教えようとしてくれたことなのかも知れないと思った。


手始めとして、

①旧知の人たちと距離をとること。

もう誰とも会いたくなかった。

知っている人に会ったなら、
向こうも何か言わないと思うだろうし、
こちらも色々と説明するのが辛い。
すでに事情を知っている数人の友達を除いて、新たに連絡を取るのはやめた。

特に幸せそうな、華やかな集団が怖かった。
で、所属していたFacebookやLINEのグループから無言で退会した。

②本名でFacebookとInstagramのアカウント作成すること。

それまでは、ビジネスネームでSNSをやっていた。
初めは会社にバレない為の対策だったけど、だんだん本当の自分で無い気がしていた。

これも実はずっと悩んでいたことだった。

旧知の人には知らせたくない。
でも何か思うところは発信したい。

で、本名でアカウントを作成して
ボツボツと発信し始めた。

やっと本当の自分を取り戻した気がした。


③喪中ハガキは出さない。

「娘の死」を言葉にすることがイヤだった。

時間的には年内に間に合ったが、
喪中ハガキは出さないことにした。

年賀状をくれた人には、
寒中見舞いで「喪に服している」と返信しただけで、誰の死とは書かなかった。

よくできた私の友達は一人として、
「誰が亡くなったの?」と聞いてくる人はいなかった。


初めは
そんな事をしたら友達が無くなる…
という恐怖感はあった。

老後に友達がいなくなったらどうするの?
と思ったが、

安心感のための友達なら友達じゃないのかなと思った。

一人になったとしても、
あちらの世界に一人で行った次女の寂しさを思えばそんなことなんでもない。

これまでの私なら絶対そんな不義理なことはしなかった。
人の気持ちを考えたら、後で気を悪くするに違いないことはできなかった。


悪い人になりたかったかも知れない。

非常識で不義理なことをすること。
それが、理不尽な出来事への私なりの歪んだ抵抗だったかもしれない。

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