読書1「学校と社会」J・デューイ

西島尊大です。

最近の読書を、キーワードとそのページを付して記録しています。

今回読んだのはデューイ『学校と社会』です。僕自身は教育を研究する者ではないのですが、普遍性を持つタイトルに惹かれて購入しました。正確に言うと、購入してから数年間読まずにいました。

意を決して読み始めたところ、けっこう文体がかためです。訳者である宮原さんのワードチョイスも関係すると思いますが、全編、思考をめぐらしながら読むのには1週間を要しました。いや、けっこう体力を使う難しい読書でした。その原因は、本作が講演会に登壇したデューイの講演内容の速記を元にしていること、翻訳書であること、扱っている問題そのものが複雑であること、また言葉選びが古風であること、そして修飾語句の介在が多いことにありそうです。

デューイは書名に漏れず教育学の人として知られるようですが、大学では哲学を研究し、ミシガン大学の哲学講師として就任するなど、哲学畑の人なんですね。

僕が全ての読書に期待するのは作者がこの世界をどう捉えているかという哲学です。このばあい、デューイという人物の思考エンジンを動かすものは、教育というオイルです。要は、その人がいきいきと語りだす現場があれば、それがどんなステージであっても構わないわけです。

例えば、児童に課す教育の具体的内容を語るなか、デューイはこんなことを言っています。

「書物は経験の代用品としては有害なものであるが、経験を解釈し拡張するうえにおいてはこの上もなく重要なものである」

身体的経験を土台にしなければ、読書の効用は空想の誘発に終わるということを述べています。つまり、教育について語るうちに、読書というすべての人に関係する論題へ意見が及んでいる。結局、教育を通して人間を語ることになっているのです。しかも、書き手によって文体は様々です。同じ議題について語るにしても、美に対する考え方が著者ごとに相異なるので、その書き味も独特だから、一文一文が趣をもっている。この点で、読書には語り尽くせない魅力があると感じます。

以下、本の情報とキーワード・キーセンテンスのメモです。作品の著述内容には深く立ち入りません。その代わり、僕自身にとって、自著ではまず使わない古風な語彙、面白いと思った表現、文(文章)としてビリビリくるものなどを羅列しています。

このあとはずっとメモが続きますので、僕の文章はここで終わりです。
また次の本でお目にかかります。

『学校と社会』
著者 John Dewey ジョン・デューイ
訳者 宮原誠一
発行所 岩波書店
1957年7月25日 第1刷発行
2000年4月25日 第58刷発行
キーワード一覧

P.11 「一斑(いっぱん)」
P.17 「あげて」
P.21 「縦覧随意(じゅうらんずいい)」

P.34 「プラトンはどこかで、奴隷とは自分の行動において自分の意志ではなくて誰か他人の意志を表現する人間のことだと言っている」

P.45「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる」

P.51 「私は特殊的なことがらのなかに存在する普遍的なものをみのがしたくないのである」

P.56「しかし、総じて、またとくに年少の子どもたちにおいてはいっそうそうであるが、芸術的本能は、主として、社会的本能すなわち告げたい、表現したいという欲望とむすびついている」

P.64「私は背後にいきいきとした経験の存するばあいにおける言語のいきいきとした使用をさらによく説明するために、他の二つの記録から一、二の文章を抜きだしてみよう。『地球が収縮できるほど冷却したとき、水は二酸化炭素の助けをかりて、岩石のなかからカルシウムを引き出して(傍点)大海の中へ注ぎこみましたから、小さな動物は海のなかでカルシウムを取ることができるようになったのです。』もう一つの文章は次のように書かれている。『地球が冷却したとき、カルシウムは岩石のなかにありました。それから二酸化炭素と水とが結合して溶液となりました。そして水が流れるにつれてカルシウムをもぎとって(傍点)海へと運びました。すると海には小動物がいて、溶液のなかからカルシウムを取ったのです。」このように『引き出した』とか『もぎとった』とかいうような言葉が科学的結合の現象と関連してつかわれたということは、どうしても独自な適切な表現をせずにはいられない、本人の、身をもっての理解がおこなわれていることを証拠立てるものである」

P.74「シェリングの哲学」
P.76「細部に立入る」
P.78「職業的陶冶」
p.79「徴する」
P.80「囲繞(いじょう)」
P.82「愚を悟る」
P.84「通暁(つうぎょう)」「くどくどしく」
P.85「偏頗(へんぱ)」
P.87「贅言を要しない」

P.89「私はかつて或る一人の大変聡明な婦人がつぎのように語ったのを聞いたことがある。曰く、科学というものをどうしたら子どもたちに教えることができえるものか私にはわからない、なぜならば子どもたちときたら原子や分子ということをてんで理解できないのだから、と。つまりいいかえれば、高度に抽象的なことを、日常的な経験に頼ることなしに、どうして子どもにしめしてやることができるものか、この婦人にはわからなかったので、そもそも科学なるものをどうして教えることができるのか理解できなかったのである。われわれはこの言葉を聞いてほほえむまえに、そういうことを考えているのはこの婦人ひとりだけなのか、それともこの言葉はたんにこんにちのほとんどすべての学校の授業の原則をいいあらわしたものにほかならないのかを、われわれ自身に問うてみる必要がある」

P.90「書物は経験の代用品としては有害なものであるが、経験を解釈し拡張するうえにおいてはこの上もなく重要なものである」

P.92「すべての芸術は身体の諸器官ー眼と手、耳と声とをはたらかせるものである。だが、芸術はそうした表現の器官が要求するようなたんなる技術的熟練を超えた或るものである。それはまた観念、思想、事物の精神的表現をふくむものである。だがそれは観念そのもののいかなる集まりとも異なるものである。それは思想と表現手段との生きた結合である」

P.93「味得」
P.100「討究」
P.113「緊切」
P.115「統御」

P.117「それゆえ、問題はここでは(一)仕事・発表・表現・会話・構成および実験においてじゅうぶんに多量の個人的〔体験的〕な活動を子どもにあたえ、かくして子どもの道徳的ならびに知的個性が、書物によって押しつけられる不釣り合いに多量な他人の経験のために圧殺されることがないようにすることであり(後略)」

P.118「享有(きょうゆう)」

P.119「学校のプログラムにおいては一定期間ごとの集中と変更が要求される。すなわち、一定のプログラムにおいてすべての主題を同時に、また一様な速度で進行させるのではなく、しばしば或る一つのものが前面に取りだされ、他の諸々のものは背景に退けられなければならないのである」

P.136「気随気儘(きずいきまま)」

P.137「心理的な見地からみれば、教師が指図命令の連発に依存しなければならないばあいは、それこそまさに、子どもが、為さるべきことがらについて、そしてまたなぜそれが為さるべきであるかについて、なんら自分自身の心像をもたないためであるといっても間違いではないであろう。だからして、子どもは指図命令に応ずることによって統御の力を獲得するどころか、じつは統御の力を失いつつあるのでありー外部の力に依存させられているのである」

P.143「思考はなんらかの困難に処する必要からおこるもの、すなわち、その困難を克服する最善の途を反省することのなかで生れるものである」

P.145「仕事は、さもなければ離れ離れで発作的である多種多様の衝動を接合して、しっかりした背骨を備えた首尾一貫した骨格に仕上げる」

P.157「閑却」
P.158「不承不承(ふしょうぶしょう)」
P.185「方途」




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