音楽に意味はない

 私達が音楽に心を動かされるとき、純粋に作品のもつ性質だけによって感動を催しているとは限らない。音声を契機とし、鑑賞者にとって思い入れの深い情景や思い出が喚び起こされることもある。そのときには、音とそれら"想起物"とが相まって形成された、構成物の総体が、"音楽"として鑑賞されているはずなのである。即ち、音楽という媒体は、恐らく、音声情報だけで鑑賞されてはいない。音楽は、聴取者各人の人生経験と共鳴し、波紋のように味わいを生ずる。リスナーそれぞれに、様々な経験、その積み重ねとしての歴史が控えているわけだから、10人に同じ曲を聴かせるとき、全員を画一的な鑑賞態度へ誘導することは難しい。耳にした音からどのようなイメージを喚び起こすかは、個人の性質、直近の出来事、心理状態といった種々の条件に大きく影響を受けるであろうから、その趣が一通りでないことも、言を俟たない。とはいえ、そのことは、他者と同じ鑑賞態度に没頭することができないという孤独な哀しみを示すものではなく、我々の一人一人が唯一無二の人格をもって生きていることの証左に相違ないと、筆者はそのように考えている。

 ところで、音楽はCD等の形で市場に売り出され、手に持つことのできる品物さえあれば、作品として自立しているように思われるが、実際には鑑賞者の介在がなければ存在を保障されることはないし、その無機質な円盤に与えられる意味は少ない。音楽は作曲者という鑑賞者によって聴取されたとき、最も有機的な形姿で観測される。何となれば、作品は作曲者の体内に根を張るものであるからだ。そのため、作曲者から離れた他者という鑑賞者に聴かれたとき、音楽は自立性を失う。それは何故か。幼児の描く絵をイメージされたい。彼らはしばしば絵を描くが、元となる被写体が何であったのか、判別のつかないこともままある。本人に訊いてようやく、これは何を描いたもの、それは何を塗ったもの、と理解するに至る。つまり、どれほど他者に理解されづらい形であっても、作者本人は、その作品を精製した意図を確実に有し、かつ鑑賞に堪えうる価値があると信じているのだ。言ってみれば、作者の体内には、作品に文脈を供給する土壌が、耕されているのだろう。そのため、幾分至らない部分があっても、不足は自動的に補完される。しかし、他者という別の畑に植わったときには、土壌が異なるから、補完を期待することができない。作品として自立できなければ、切り花のように命数を尽く。自立し芽を出せるかどうかは、作品が"根っこごと"作品化されているかどうかに掛かっている。根にあたるものは、作者と受け手とに共通した体験であったり、日々の出来事に伴う心の動きであったりする。我が身に引き寄せて共感できる何物かがありさえすれば、人はその音楽に関心を持つことができる。これが、作曲者を離れ、他者の心に音楽が根を張るということなのだろう。これは、歌詞に限ったことではなく、歌詞のない曲(インストルメンタル)においても同じことが言えそうだ。つまり、音楽的な構造、あるいは展開、楽器選び、音色設計、リズムメイキング一つをとっても、"好んでその選択をする"ということ自体が、他ならぬ作曲者の意志の顕現であり、それが一つの共感となって、見知らぬ他者の作物(さくぶつ)に耳を傾けるきっかけを作る、ということだ。

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西島尊大/RAVENWORKS

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