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週報80(2019.12.23〜12.29)

週報の時間です。

家の大掃除を進め、ジムで“体操納め”をし、心身共に清めて年末の時を過ごすこのごろです。皆さん、新しい年を迎える準備は、整いましたか?

○無と有(自由の不自由さ)

年末随想シリーズということで、かねてより気になっていた「無」と「有」の概念について、少し書いてみたいと思います。

きっかけとなったのは「無数」と「有数」という二つの言葉で、前者は「数が多い」ことを示し、後者は「数がすくない」ことを示します。これは不思議なことです。無と有の対応関係が逆になっています。

辞書で意味を引くと「無数」は「数限りなくあること」、「有数」は「わざわざ取り立てて数えるほどに目立つこと」とあります。そうだとしても、数限りなく「有る」のだから「有数」といっていいはずだし、探しても滅多に「無い」わけですから「無数」といっていいはずです。しかし実際の用法はそうならなかったし、いま私の挙げた試験的な用例は違和感を生ずるだけです。それくらい無数・有数の用法は巷間に浸透しています。

現代は情報の多い社会なので、この情報という概念を使って考えてみます。情報は、私たちが事を円滑に運ぶための知識です。その知識へリーチするための手法としてインターネットの利用が挙げられますが、肝心の情報はものすごい数で、群れをなしてネットの海を漂っている。必要な情報を見つけ出す力がなければ、遭難の憂き目にあいます。このとき、情報は「無数に有る」と言えます。つまり、数えきれないくらいにあるため、目的とする情報へリーチできず、結果として「無いのと同じ」ような状態になるのです。故に、「無数」状態の世界を「有数」状態にする必要があり、その手立てとして「編集」という作業が存在するわけです。

わかりやすい編集の例は「写真撮影」で、世界に存在するありとあらゆる人物(ヒトとモノ)や現象のうち、これだと思うものに焦点を当てて切り出すわけです。街の景観全体を高台から収めるのと、街はずれの寂れた商店街を人の目の高さから収めるのとでは、意味が変わってきます。カメラは、シャッターを切りさえすれば像が残りますが、いつどこで何を撮るかという「無数」の要素の絡み合いから「有」を作り出す装置と言えるかもしれません。

ピアノもそうです。音の出し方は無数にあるところを、88の音に絞った演奏装置を作り、また演奏者は強弱・リズムにおいてどう、演奏しても良い無限の可能性の中から、たった一つの道を切り拓き続けています。

あまりにたくさんありすぎることは、無いのとおなじこと。

数が絞られると、初めて見えてくること。

現代に生きる私たちは、無数の選択肢を与えられ、無限の可能性を信じ込まされ、またあらゆる自由を与えられすぎて、結果として身動きが取れなくなっているのではないかと思えてきます。これは精神的不自由の比喩で、実際は生活自体が立ち行かなくなるということは無いはずですが、とはいえ、いちど「何をしてもいいよ」と突き放されてしまうと、この亡霊のような「自由」を飼い慣らして「私」を証明する鎧を鋳造するという、荒業を遂げることの難しさが、かえって際立ってくるのです。

○また来週…

昨年末、惜しむらくは作業部屋の机の上を読みかけの本その他で騒々しくしたまま新年を迎えてしまったということ。今年こそは「明窓浄机」を顕してくる年を待ちたいと思います。

大晦日には年報を投稿して、本年の活動は終了です。
それではまた明後日お目にかかります。

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