ひとに音楽をすすめること

「好きな音楽を人に勧める必要はあるのか?」という質問は「人間に生きる必要はあるのか?」という問いかけに似ている。答えは「どちらでもよい」。その吟味に関わるのは、その人が「そうしたいと思うかどうか」だけだと思う。

人に音楽を勧めるのには少々困難が伴う。自分の好きなものには、そのまま自分の分身みたいなところがある。受け入れられなかったら、まるで自分が拒絶されたような気持ちになってしまう。これは、発信者の悲劇。

また、人からものを勧められると素直に楽しめなくなるという、厄介な種族も存在する。「このアーティストがとてもいいから聞いて!」といってCDを差し出されると、“とてもいいフィルター”を通して聞くことになるので、逆立ちして聞いても「とてもいい」という捉え方から逃れられなくなる。人と同じ感想をなぞるだけの鑑賞、それならいっそのこと聞かない方がましだ、ということなのだろう。こちらは、受信者の惨劇。

途方もない数の作品が犇めき合うこの世界で、偶然聞いた音楽が自分の趣味趣向に合致すれば、これは強く印象的な出会いとして記憶される。これは、冒険者の喜び。しかし、その音楽が、動画サイトで何百万回と再生されいて、すでに音楽ファンの間では有名な存在であったりすると、おのれの寡聞を恥じることになる。

手軽に音楽を始める環境がある現今、アーティストの総数自体が底上げされていることに加え、また、彼らを知る方法もオンライン・オフラインを問わず充実している。つまり、この状況が「これまでにも知るチャンスはあったのに、今まで知らなかった」という罪の感覚を、我々リスナーに与えている。

全てを知ることはできない。また、知ることを目的にすると、つまらなくなる。それよりも、今日初めて知った作家との、その出逢いを大切にすればよい。昨日でも明日でもなく、今日、このタイミングで出逢った、ということをよく考えれば、意味深さも出てくるというものだろう。

さて、話を元に戻すが、人に音楽を勧めるということはやはり難しい。ただ、書店に「聞いておくべきジャズ100選」といったものが並ぶのを見ると、やはり人はいつの時代も教導されたがっているらしい。音楽鑑賞の入門書は、泳ぎ方を知らない人に基本的な泳法を教えるコーチのような存在で、代表的なものを一通りおさえたら、あとは各位自由に好きなように探してください、といい意味で野放しにする向きのものだ。

全くのジャズ初心者にとって、ジャズという世界は無重力空間といえる。そこで「例えばこんな有名な人がいます」と教わるだけでも、重力が生まれ、いちおう立っていられるようになる。拠り所がないというのは不安なものだから、入門者にとってはやはりありがたい存在なのだ。

見ず知らずの人から勧められるのと、近しい人から勧められるのとでは、そのアイテムに対する距離感が断然異なる。「知らない人に勧められた音楽」と「友達が勧めてくれた音楽」とでは、印象が全く違う。

誰が勧めるかということは、ときに「どんな風に勧めるか」ということよりも意味深く重要な事実となる。いくら勧め方を工夫しても、ファーストコンタクトの時点で信頼がなければ聞く耳を持ってもらえない。

どういうことか。

つまり、プレゼンテーションする前から結果はある程度決まっているということだ。あらかじめ相手との信頼関係を作っておかなければ、同日当初、その場の十数分だけで相手の信頼を勝ち得なければならない。こんなに難しいことはない。裏を返せば、相手との信頼関係が築かれていさえすれば、プレゼンの現場で感じるアウェイ感を低減し、本来のパフォーマンスを発揮する心強い助けを得ることができる、ともいえる。直接相手とコンタクトを取れないとしても、「私はこういう人物ですよ」という意思表示を普段から行っていれば、受け手にとってもうけ容れはスムーズだ。

ずいぶん話が広がってしまったが、あくまで「人に音楽を勧める」という話。音楽は自分で見つけるのが一番たのしいと思っていたものの、人を通じて知る音楽も意味深いと考え直すようになった。もちろん、どちらの路線もあっていい。並行すればよいのだ。

このnoteで、いずれ音楽のお勧め記事を立てる予定だ。
誠に僭越ながら、新たな音像世界をめぐる旅の一助になれば幸いである。

【訂正情報】
2019.4.13
「偶然聞いた音楽自分の趣味趣向に合致すれば」を
「偶然聞いた音楽が自分の趣味趣向に合致すれば」 に訂正しました。

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