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週報82(2020.1.6〜2020.1.12)

週報の時間です。

松の内から脱し、正月の魔法も解け、楽しかった年末年始のムードもあっという間に遠い昔のこととなり、気づけば激動の日常にとらわれはや数日…そんな人も少なくないようです。過ぎ去った時を思うのもいいですが、この新たに訪れた2020年を楽しみたいものです。

○多様な価値観とは

当筆は世間の諸問題の解決を願ってものされるものでもなく、ただ肌で感じる世相の実態を感じるままに記すだけのものですから、あまり期待をされないようお願いしたいのですが、とにかく、世の人々はいよいよ生き迷い出しているのではないかという印象を強く受けるのが、このところ筆者の胸中にわだかまる所感なのです。

迷うことは問題に対処する術をとらえかねることで、身に降りかかった事柄についてどう解決を図ったら良いか悩み、足踏みをしている状態を指すわけですが、望んでその状態にある人はいないはずです。ただ、何か解決を図るときにそういう足踏みがあるのは事実です。目的地までの途上に谷があるなら何らかの方法でこの谷をやり切るほかありません。

私が思うのは、そういうふうに越えるべき谷、すなわち夢を持って生きている人と、そうではない人とのあいだに、どうしてこうも深い溝が出来てしまうのかということです。日常が間違いなく自分の人生の現在進行形として認識されており、疲労やストレスがあったとしても生活の総体としては満足の域に達し、自己認識上自由に過ごすことができているというのが、夢を持って生きられている人で、言い換えると自律、すなわち、自分で自分の行動に制限をかけている存在とも言えます。

一方、世間の趨勢としては、とにかく価値観多様の尊重とか、自由とかを重んずるように見えますが、そも人間を作り上げる義務教育の現場で、どこまで学生個人の価値観を尊重し、学生個人の自由を尊重できているのでしょうか。それも、意味のある次元においてです。

例えば個人の価値観を尊重するといいながら、文化祭では決められた一つの出し物を用意することがほとんどです。多数決が採用されてしまえば、興味のない出し物に協力せざるを得ない少数派が生まれてしまうことは不可避です。しかしクラスの一員としてその決定には黙して従うのが集団生活の規則です。つまり、そこには疑いなく個人と個人のぶつかり合いが存在し、軋轢や不協和音を作り出すことが想定されています。この事実を抽出しただけでも、「個人の尊重」という概念を、分かりやすい字面上の次元で、浅はかにに理解してはならないことがわかります。

ただ、この問題は簡単に解決することもできます。クラスというフレームを無くせばよいのです。学生の一人一人が個人で行動をし、特定のホームルームに属するという状態を廃止すれば、文化祭は希望参加制になり、自分の興味のないことに時間を取られずに済みます。副次的な効果として、仲の良い学生同士でより濃密につながり、友達のいない学生はより孤立が深まることが予想されます。自由の保障された学生生活を享受できますが、この生活を活かせるかどうかは個人の資質と努力に委ねられることになります。

とはいえ、他者とのぶつかり合いを避け続けると、自分にとっての異分子が目の前に現れた場合に、排除か逃避以外に選択することができません。結局、クラスという生活集団を設けることで、将来起こりうる人間同士の摩擦をあえて起こし、折衝力を備えさせるというのが、クラス編成の目的の一つであるわけです。また、クラスの一員として過ごすからこそ、この集団から離れたときに初めて自由を感じることもできるわけです。自由は他者に与えられるものではなく、自ら手に入れるもののはずです。

そういうわけで、何かにつけて「個性尊重」とか「主義主張を重んじる」という概念を頻りに繰り出す発信者については、一度その言説の一通りを精査するべきというのが、今日の懐です。

子どもが育つためには、鷹揚に構えて、余裕を保ってふところを貸すことのできる大人が育たなければなりません。では、さらに遡って、そういう大人が育つためには何が必要なのか。そして自分自身、どうすればそういう大人になることができるのか。近頃は、そのことを考えさせられています。

○また来週…

勧学院の、あるいは朱に交われば、といったところで…煎餅のような書物を読み浸っている期間は、こういう筆致になりがちです。自分の場合、こういう一連の思考が巡り巡って最終的に音楽を作り出すということもよくありますので、平にご容赦いただきたく思います。

それでは、また来週お目にかかります。

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