週報78(2019.12.9〜12.15)

週報の時間です。

年末という時間には、何か人をしてドラマチックならしめる処のあるようで、自分などは喫茶店に入っても、やれこの1年はどうであったとか、さて次の1年はどうであろうかとか、大局的にものを見がちです。否応なく時の流れというものを意識させる力のようなものが働いているらしいですね。

○書くということ、ほか

毎週素人筆致で文章を書き、提出しているのですが、自分の書くものそれ自体に価値があるとは思っておらず、ただ「書き続ける」という継続性の表現にいずれ意味は生ずるだろうというはかない希望の顕れとして七日ごとに姿を表しているに過ぎないのです。

実際のところ、若い時分に文章を書いて人に見せるなどということは「自分の書くものには価値がある」という奢りの体現で、甚だ不遜ではないかという懸念を持っていますが、そういう考えの延長に出てくるのは、よほどしっかりとした文章を書けるようになるまでは一向世間に姿を見せずに隠遁を続けて、これならと確信した頃に随筆なり何なりを世に出せばよいという遠大なる計画です。

ただしこれは欠陥のあるアイデアだと思います。そこには、自分の完璧な姿しか見せたくないという不幸な完全主義があります。人からの評価は自分の成長と深い関係にあり、誰からの批評もなくただただ創作に身を投じることは、練習に没頭して実際の試合についぞ出ないようなものでしょう。書いたものが読む人にどう働くかというのは、表に出さない限りは見えないことです。

その点、作品を出しさえすれば、受け手の感想というものは非常に受け取りやすい時代です。そしてこれは、一見よいことのようではありますが、受け手の感想が直に伝わってくるということは、作風の変化にも大きく影響を持ちます。あまり色良い反応がなければすぐに作り方を変えてしまうという人も出てきます。これでは作家が時間をかけて自分の技を磨く機会を「効率」の名のもとに奪いかねません。

人の反応が気になるというのは自然なことでありながら、これを過度に思えば自分の形を保ち得ない。人の反応を気にしないことは大切ですが、こればかりでは独善の誹りを免れ得ない。こういうバランスの難しさは漱石の『草枕』とか韓非子の「説難」とか、いろいろな人が唱え続けていますが、はっきりと答えの出ない問というものは何とも収まりのわるい厄介者です。そして、そういう厄介者を体のうちに住まわせてやれるのも人間の面白いところです。人は論理を突き詰めながら、一方では堂々と矛盾をなす。

その、時々あらわれる矛盾というのは、非効率の極みでありながら、我々にとって重要な位置を占めているらしいですね。他人(ひと)にお願い事をするときなどは最たるもので、「作れ」と言われて「作ります」といかないのが人間の面倒なるところです。頼み方一つで頼まれる方のやる気も全く違ってきますね。しかしうまく頼むと想定外のパフォーマンスを発揮してくれもする。こういうやりとりはいわゆるギャンブルですが、不思議なことに人の生活を破壊するギャンブル依存とは違っていながら、しかも人を熱中させる健康な魅力があります。

人間は人間として生まれておきながら、人間それ自体をよくわからないまま何となく生かされています。少しでも人のことを分かりたいと思うのが情です。そういうわけで、色々迷惑をかけたりかけられたりしながらも、人は人の間で生きることを選ぶのでしょうね。

○また来週…

次週は忘年会が4本ほど控えていますが、どれも望んで参加するものばかりなので、楽しみにしています。

それではまた来週お目にかかります。
(2019年の週報:あと3本)

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