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週報69(2019.9.30〜10.6)

書店に寄っては古書を買い集めるという悪癖を治す術もなく、日に日に増える未読書の山。いよいよその置き場にも困るという始末で、とうとう月極めの倉庫でも借りようかという考えが頭に上るようになった。

読んだ先から売ればいいものを、なまじ傍線を引いたり紙面上に所感を書きつけたりしているものだから、売り物にはならない。どうせ売らないからと、気が大きくなって、方々にメモやら何やら勝手気ままに書き込むようになる。書籍を全く綺麗な状態で保存することに価値をおいていた学生時代に比べると、大きな変化といえる。

本に書き込みを入れることには一抹の抵抗がある。一冊の本それ自体を作品としてみれば、表紙や裏表紙はもちろん、諸所の余白やフォント、改行のタイミングに至るまで、著者および発行者の意志の統御するところだから、ここに自筆を介入させ調和を破るのは忍びない。

そういう思いがどこからやってくるかというと、どうやら幼少期大量に受信していた箴言の働きに起因するようで、「ものは大事に扱いなさい」というスローガンが読書においてもその存在感を遺憾無く発揮するのだ。

ものを大事に扱うという発想は、ものに渇した経験のある人の考えで、もはや、飽食の現代人にはいささか縁遠いとすら言える。本にしても、印刷技術が発達してからは往時に比べるべくもなく素早い生産を可能にしている。かつての本が手書きで写されていたことを思えば、その差を論ずる遑もない。

この「写本」という伝統は、多くの人にとっては無関心の、それどころか、終生知ることのない旧時代の技術として遠ざけられている。それは大量印刷が主流の時代にあっては当然の感覚だが、先人の労苦にふれておけば、今日造作無く本が手に入るのを、ありがたがることもできる。ありがたさは謙虚を生み、謙虚は人格を慎み深くする。

如上の書きぶりから察するに、この筆者はよほど本を大事にする人のようであるが、やはり私は本に書き込みをするし、傍線も引く。本に瑕疵があってはならぬと、付箋やブックダーツを試したこともあったが、スピード・パフォーマンス・手軽さ、どれをとっても「青ペン一本」が強い。胸のポケットからさっと取り出して、ラインを走らせたり、思ったことを即座に書きつけたりすることができる。

付箋は1枚ずつはがして貼り付けるのに時間がかかるし、だいいち書面上にスペースをとるから一部の活字が隠れて邪魔になる。隠れた部分を確認するためにいちいち付箋を着脱できるほど筆者はまめな人間ではない。

ブックダーツはアンティークとしての趣をもつが、細かいために持ち歩こうとすると気を使うし、ポケットなりカバンの一角なり、保管用のスペースを割かなければならず、よくない。いっとき、本のしおりに多量のブックダーツをかませておく芸当もこなしてみたが、ダーツをしおりから外して当該行にさし挟むというプロセスじたい、少々面倒である。その上、いずれ矢は尽きるし、そもそもこのアイテムの仕事は行の指定ばかりで、文字を書き記すということには一切無頓着であるといっていい。特定の作業に特化した職人なのだ。

ともあれ、文化の下支えとして活躍する文具類に、個人的な趣味から好き勝手なことを言い連ね、今にお叱りのメッセージが届くのではないかと恐怖している。

共用の本でない限り、書き込みを施すのも、本というメディアの性質を尊重した用い方といえる。本の余白には、読みやすさやデザインも働いていると同時に、そこに何かを書きつけたいという欲を刺激する向きがある。そうなると、あの余白は何かを書きつけるために、読者に向けて開放している自由区画なのではないかという気がしてくる。

なお、電子書籍について付言すれば、冊数にかかわらず、データ保管上占める物理的スペースは便宜的にゼロといって差し支えない。表示媒体のディスプレイがあるばかりだ。タッチペンを使えば、書き込みもできる。使い良さに関して、この上をゆくものはそうそうない。

唯一ないものは、それ自体にまつわる味である。

本の活字情報メディアとしての側面を極限まで抽象した結果、その手に取ることのできる厚みは、効率の名の下、不要なものとしてカットされた。これは、音楽メディアがストリーミング・ダウンロードへ移行したことに似ている。スマートフォンさえあれば再生できる音楽を、レコードやCDで聴こうとする人は少ない。

這般の趨勢を見るに、CDは音楽を聴くためのメディアというよりも、手に取ることのできるファングッズ、もっと言ってしまえばアンティーク(骨董品)とした方が正鵠を射る。間近に触れることのできるものには愛着が湧くし、繰り返しの鑑賞に耐える滋味がある。

一方で、データそのものは一瞬のうちに複製も削除もかなうわけだから、その存在は儚いというよりも、虚無に近い。人が、mp3という音声データから受ける感銘に価値はあるものの、データそのものには価値を認めづらいのだ。

もののない時代を経て、ものの溢れる時代を過ごし、ついには、ものすらない今に至る。ものに執着しない達観した人間が増えたということなのか、或いは鳴り響く警鐘も無線イヤホンでシャットアウトされ聞こえないということなのか。平成から令和への転換期、人々の感性がいかに変容していったか、これは後世の人の語るところである。

当面、私は紙の本を愛用し続けたい。将来、木材の過消費を抑えるとかいって、読書の主媒体が紙の本から電子書籍へと完全移行し、書店の本が軒並み消えるという悪夢の到来しないことを祈る。

○と、いうわけで

今回は趣向を変えて随筆一本でお届けしました。

たびごとに「もう秋」とは言いつつ、けっきょく関東では先の土曜日も30度を超える暑さを記録しました。全盛期の暑さに比べたら、まだいくぶん耐えられると書きましたが、暑いものは暑い。どうしようもないことです。この時期に入ると、秋に入ったはずな「のに」という逆説の文脈も働くので、余計に暑さが鬱陶しく感じられるのでしょうね。

○また来週…

10月第1週のYouTubeは3380人→3410人と、30人の増でした。この記事は映画「蜜蜂と遠雷」を見た後に近くの喫茶店で書いていますが、夜風はだいぶ涼しく、ただ「寒い」とまではいかない絶妙な塩梅です。この肌触りを楽しめるのは限られた期間。大事にしたいと思います。

それではまた来週お会いしましょう。


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