意識のアップロードは意識のクローンか?
渡辺先生は、「Explanatory GapやHard Problem」を乗越えるには、脳で意識作用が発生する事実が前提の「自然則を導入」し、その意識を機械半球に実装し、生体脳半球に脳梁で接続して確かめる検証プラットフォームを提案されていると思います。
これは同時に、生体脳の死を跨ぐ意識作用の「デジタル(不老)不死」を、実験的検証できるものになるとされていると思います。
問題になると思うのは、渡辺先生ご自身が「意識のアップロード」の可能性を追求するのであり、残される「生体個体脳の死」への考慮は捨象する立場である、とされていることです。
「意識のアップロード後の<わたし>は<わたし>であり続けるか?」とテーマが置かれていますが、<私>という主観意識は、常に「今ここ」の現在(存在)の現実態(存在)エネルゲイア(存在)に置かれたものであり、アップロードが現実に成ればそこに主観意識の作用が発生するとしても、元の生体個体脳にも主観意識は、その死まで作用を続けることになると思います。癲癇症治療等で分離脳において意識が二重化したりするのが、その事例になると思います。結局それは<私>と経験を共にする、モラベクの言うMind Childrenの一種になるという気がします。
以前にも例に挙げたと思いますが、映画『ルパン三世』でクローン人間をテーマにしたものがありました。そのクローン人間は、今回の松田先生のお話に類似して、何千年もの人類史の情報を記憶として保持する巨大な脳がオリジナルで、大量の個体クローンが惨めな個々の主観意識を持って生きているという物語になっています。ラストシーンは、ルパンがオリジナルの巨大脳が宇宙に飛び出す際、保護シールドを破壊し、「俺はクラシックだからな」とのセリフがあったと思います。
この構図は「普遍知性と個的知性」「ブラフマンとアートマン」の様態を根本に有するものであると思います。
トマスの「個のイデア」、スコトゥスの「これ性」、ライプニッツの「モナド」、これ等はシステムを「中間システム」として観ず、「完成態」を想定していると考えられます。 開放系の無限の入れ子状態で展開する中間の様態とはせず、閉鎖系システムとして現在の現実態エネルゲイアに在る「主観意識=私」の超越性を前提にしていると考えられます。
何れも「復活」という「死」を超克した個体性を前提に考察されたものであり、「普遍的な個」を想定した観方であるからと、考えられます。