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さよなら絵梨 考察 ネタバレ注意


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追記

700カット考察してる方がいたので、そちらのほうが納得いきますね。

1ページ1分と考えて3時間20分じゃないかと考えてました。

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書きなぐったものを投稿します。

二重に話してるところもあるけど許して下さい


一番大きなテーマに、

入れ子構造と言う【メタ構造】があって、
◼①ツッコミ無きギャグ漫画
◼②クソ映画としての視点
◼③呪縛の物語
◼④視点の違いと解釈の違い
以上の小さい4テーマからなる作品ではないか。



⬛①突っ込み不在のギャグ漫画とは、前半の爆発シーンを主人公が編集してると思うと笑えてきたり(爆発に2コマ使ってるけど空のトーンの色が違う。納得行くまで撮ったんだろなぁ。時間経過を感じる→友人の情報提供)、わざわざ図書館で映画の感想言わせたり(静かにしろの張り紙が笑える→なんでわざわざここでインタビュしてんねん)父親に劇中劇やらせたりと突っ込みどころ満載。

最後の絵梨は合成で【実は絵梨は吸血鬼だった】とは嘘。

【ファンタジーをひとつまみ】とは最後の【主人公が自殺しようとするところ】からファンタジーになってる

つまりここからは全て主人公の合成編集っぽい

声は2700時間を超える動画から合成してる。

絵梨本人も最後の爆発も合成してる。なぜ主人公がそんなことができるのか。おそらく主人公の勤めている会社は映像関係の会社(就職の言及あり)。

最後の爆発のエフェクトが前半の爆発エフェクトより成長が見える


最後のところがが合成だとしたら、主人公が一人芝居をうってることになるからシュールな笑いが生まれてくる

「絵梨が僕にしゃべってる?」

わざわざ状況説明するんかい。シュールで笑える



⬛②クソ映画としての側面
一番上のレイヤー。何も考えないで読んだら「分かるような分からないような」って感想に終始する。
考えて読む人は絵梨が作中映画を【クソ映画】と言及してるし、作品自体のストーリーも複雑だから「これって面白いのか?」状態になる。続く

読者をある程度の読み込みで思考停止にさせることにより、それを見ている読者もクソ映画(この作品自体がクソ漫画)との前提で読み進めることになる。
【クソ映画】という前フリを最初に用意して、最後読者に「クソ映画でありクソ漫画だな」といい意味で能動的に落とさせてくれる。続く

この作品を理解できないことへの免罪符が【クソ映画】という言葉で用意されてて、理解できない不快感を残さない構造。誰でも最後まで読めば爆発の演出と相まってスッキリするという。「色々理解しようと頑張ったけどそういえばクソ漫画だったわ」って納得する読者もいるのでは。続く

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追記

むしろ理解する必要はない。免罪符は言い過ぎよね

作品から気持ちよく離れてもらうための仕掛けよね

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⬛③呪縛からの開放
絵梨=母親の幻影で解釈すると 吸血鬼として何度でも蘇る絵梨には、いくつものメタファーが内包される。映画として何回も見れる再現性としての不死性。吸血させるという受動行為の搾取性→母親の搾取性に繋がる。続く


あとこれ絵梨=母親だよね。何度でも蘇る吸血鬼と、家族との嫌な記憶(主人公ら母親から虐待を受けてた)は何度でもフラッシュバックバックするから、どちらも不死身と捉えられる

【吸血】も非常に受動的要素が強い。母親の子供に対する搾取とも共通する

吸血鬼→死なない→忘れられない母親との記憶。嫌な記憶がフラッシュバックして忘れられないというメタファー。逃れられない【呪縛】と捉える事ができる
母親が死んでも絵梨として生まれ変わる母親(不死性)。上記の事象と水族館やパフェの場面が母親と絵梨で共通しておりそれを察知させる。

母親が死んでから絵梨は退院するし


母親の名前を出さないのも意図的。絵梨と重なる部分の演出のために排除している(読みやすさ的にも絵梨と優太二人の名前のみ開示)
キーとなる演出が【建物の爆発】で前半と後半で意味が異なる。前半は逃避(走って逃げる演出)が主軸で、後半は忘却(余裕を持って立ち去る)が主軸
。続く

素直に読むならば呪縛からの開放と読むことができる。
穿って見るならば、【逃避】してることには変わりないから【逃れられない呪縛】とも捉えられる。特に家族関係からは逃れられないし。爆発という着地自体も前半と変わらない。爆発させない選択肢もあったはず。ただ立ち去る選択肢もあった。続く


【逃れられない呪縛】は藤本作品の根底に流れる包括的なテーマ。チェンソーマン(マキマが子供に生まれかわってデンジが育てる→養育の呪縛→マキマからは逃れられない→マキマ=ママ)もファイアパンチ(死ねない呪縛)にも脈々と受け継がれている。続く



⬛④視点の違いと解釈の違いとは、キーになるのは【編集】。最後の絵梨との邂逅場面は主人公の編集、爆発も編集。漫画自体が思考の編集作業だから、そのメタとストーリー上のメタ(主人公が客観的との言及あり)とで二重のメタ構造になってる

【編集】が特にわかるのが、⚫①最初の映画シーンで病院爆発の場面。空のトーンが違う。実際死んだ日は曇りで別撮り日は晴れ。⚫②母親の印象操作の為に不穏な場面は切って編集している。母親の理不尽さを見せたいというより、視点の違いを言及するための配置に感じる。⚫③最後の絵梨合成シーン

自分たちも、この作品の意味を見出すために、辻褄が合うように思考を【編集】しているから。


そして、こうやって外野が議論している事自体がメタにされてる。すでに藤本タツキの手のひらの上。まさに視点の違いと解釈の違い。


タツキだからだよね。ルックバックの考察祭りがあったから、今度も「なにかあるだろう」ってみんなが考察しまくる

2作またいでの伏線だよ

 絵梨って最初から主人公と組んでたよね。

155ページ156ページ見てから

39ページ見るとわかると思います

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