『天気の子』の結末と今。

※『天気の子』のネタバレを含む内容を含んでいます。『天気の子』をまだ未視聴の方はページを閉じることを推奨します。


公開当時、賛否両論を巻き起こした『天気の子』の結末。私は非常に肯定的に評価していて、具体的にどういった部分が良かったのかについては、定期的に開催している仲間内の会で披露する予定だった。

実際にその会は今年の1月に開催してたのだが、話の流れや『天気の子』がメディア化されていなかったのもあり、話題にのぼることはなかった。その時は「5月にまたこの会をやるからその時に話せばよいだろう」と思っていたのだが、皆様がご存知の通り、おそらく会を開くことはできないだろう。

本来ならいつかどこかで語るタイミングが出てくるだろうということで文章にしようなどと思わないのだが、下記のツイートを目にして、やっぱりこの瞬間に文章にしておくべきかなと思い、noteを開いたわけである。


あらためて注意しておくが、ここからネタバレを書いていく。

『天気の子』は端的に言えば人間賛歌の物語である。

『天気の子』の結末は、最初に書いた通り賛否両論別れるものだった。私の周りでも実際にあの結末は余計だという声が聞かれた(当然だが、支持している声もたくさん聞いた)。

私はあの結末は最高に良かったと思っている。『天気の子』という怪奇ミステリーに恋愛が合わさった物語の終わりに相応しいものであったと評価できる。

実際、我々はこの世界の仕組みについてどれくらい知っているだろうか。

国立科学博物館シアター360の地球の歴史のナレーション曰く、地球の動植物で既知のモノはたった175万種程度だそうだ。環境展望台のウェブサイトによると未知のモノを含めれば、現在300万~1億1100万種もの生物が生きているとされる。

地球の地形に目を向ければ、我々はまだ地球の海の一番深い場所に到達できていないし、それこそ映画の題材にもなっている天候を完全に予測するまでには至っていない。地球は、我々の住んでいる場所はまだ知らないことだらけなのである。宇宙は言わずもがなだろう。

とはいえ、我々人類は曲りなりとも文明を築き、法則を導き出し、いろいろなものをコントロールできるようになってきた。コントロールできないものの「コントロールできなさ」を測定し、可視化し、システム化やモデル化することでコントロールしているとみなして扱っているわけである。

映画の中で印象的なシーンがあった。ヒロインの陽菜が空に連れ去られた後、主人公の帆高が代々木会館をモデルとしたビルに向かうまで線路を走るシーンがあるのだが、そのシーンの端々で復旧作業をしている鉄道従事者達が出てきて、大雨にやられた鉄道網を復旧させようとしている。人間は大雨はコントロールできない。だが、雨が止んだ後に迅速に元に戻るための行動を取ることが出来る。そのシーンは文明の持つ自己修復能力を描いているように思われたのである。

『天気の子』はコントロールできるもの、コントロールできないものをうまく描いていると思う。主人公の周りのキャラクターには死というコントロールできないもので大切なものを奪われた人たちがいる。彼/彼女らは死というコントロールできないものをコントロールできないものと認識して、心をコントロールしているようにも見える。一方、主人公の帆高は何も奪われていないし、基本的にうまくいっているよう(=コントロールしているよう)に見える。だからこそ陽菜が奪われることへの執拗さは私にとって結構な説得力があった。

さて、ここからが本題である。

物語は彼女を取り戻したところで終わらずに、雨に飲み込まれた東京での後日談が始まる。東京の海抜が低い土地は水に飲み込まれ、依頼人のおばあさんも元居た家を追われ、借家暮らしになってしまった。言葉の通り、彼は世界の形を決定的に変えてしまった。世界の形を変える力が文明の自己修復能力の容量を超えてしまったのである。

だが、大事なのは人間はそこでも生き続けており、適応した社会を形成しているということである。乱暴に言うなら、文明によって減らし続けてきた「コントロールできないもの」がまた少し増えただけであり、生活は続いている。

依頼人のおばさんは家を追われたが、生きているし、雨が降った時ぜんそくに似た症状を起こしやすかった須賀の娘は天野凪との写真で雨の中、笑っている。世界の形は決定的に変わってしまった。変わってしまったが、それでも人間は適応していく。それが人間の強さである。『天気の子』が人間賛歌であると述べる理由はここにある。

須賀が帆高に「世界なんてもともと狂っている」と慰めの言葉をかけたがその通りで、もともと世界なんてコントロールできないのである。人類が世界をコントロールできているというにはあまりにも世界を知らなさすぎる。

結末が蛇足だという人はおそらく、「陽菜が犠牲になっていれば、世界は変わらなかった」ということを見せつけられるのが嫌だったのだろうし、二人の物語には必要のない話であるようにも思われたからだろう。

しかし、コントロールできないという視点からすれば、陽菜が犠牲になることも、世界の形が変わってしまうことも一緒だ。我々が怒りをぶつけるべきは天気の巫女を必要としなければ、天候が安定しない狂ったこの世界である。そうだとすれば、人間として克服すべきは圧倒的に雨のやまない世界だ。

だから、彼女が奪われなかったことが大事だし、雨のやまない世界でも最後に二人が出会うシーンで終わるというのは必然だった。それは人間として雨のやまない世界でも力強く生きていくことの証だからだ。雨によってめちゃくちゃになった人もたくさんいるだろう。だがそれでも私は定期的に判断を迫られる世界を続けるよりも克服をゴールとするほうがよいと思っている。

翻って今、現実の世界でも同じようなことが起きている。『天気の子』のように文明の自己修復能力を超えてしまうかもしれないし、乗り越えられるかもしれない。もちろん、自分の現実の生活なので物語のように物分かりよくいられるとは限らないし、実際パニック気味だし、疲弊してもいる。

それでも、『天気の子』のことを振り返ることで少しは気を落ち着かせることができるかもしれない。

『天気の子』DVD&Blu-ray、2020年5月27日発売。

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