戻れないなら、進もう。祈りとともに。

2021年は恒例のごとく、三密を避けながら、地元の幼馴染と年明けを迎えることととなった。

例年と大きく異なることは、テレビを見て爆笑しながらの年越しではなく、細々と何かを語りながらという形式となり、歳を重ねる以上に分け隔てた何かへの影響を感じずにはいられなかった。

2020年は「きっともう戻れないんだろうな」と思うことの多い年であった。

年明け早々、私の身体がもう治ることのない病に罹患したことを知ることとなり、老いたものだと自嘲気味にいたのだが、その後すぐに新型コロナウイルス症候群という存在が私の小さなライフステージの転換の出来事を吹き飛ばしてしまった。

新型コロナウイルスの騒動が始まって3ヵ月程度は「早く元に戻りたいなあ」と思ったりしていたのだが、それが半年、9ヵ月と過ぎていくうちに、もうこれは元に戻ることはなく、このまま進まざるを得ないのだと考えるようになった。

今までの人生の中で、もう元には戻れないのだという出来事は何度もあったのだけれど、それは自分の気持ちで諦めることのできることだけであり、心を宙に浮かせたまま進まざるを得ないことなどありえないことであった。正直、今も進まざるを得ないとわかっていても、できれば元に戻ることができないか、祈りのような気持ちを持っている。

しかしながら、この祈りは届かないだろう。さらにいえば、祈りが届かないことが前述のとおりある種の諦めの始まりとなっていたのだが、今回は諦観への道筋が見えないのだ。

ある漫画でこのようなやり取りがあった。その時代の賢者と呼ばれるレベルの知識を持つものがおり、彼は市井の人々を嫌っていた。町の人間は欲望のままに生き、僻心を持ち、醜いと。崇高な志もなく、ただただ怠惰に生きているのだと。一方で彼が尊敬する領主はそのような人々を心から愛していた。彼は領主に問う、なぜ彼らはこのような状況で生きていられるのかと。領主は笑いながらこのように答えた。

「人は生きるべくして生きる」と。

結局生きる以外に目的はない、そこに手足枝葉を生やしてもがいているのは蛇足でしかない。生きる意味や価値が今の時代では持てはやされるが、結局のところ残るのは生きたことだけである。屍のように生きようとも、誰にも知られず生きようとも、戸籍を消されようとも、生きた結果だけはそこに残り続ける。その足跡がただただ、愛しい、そういうことなのである。

今回の元に戻りたいという祈りは、ややもすればその足跡が間違っていたと思わせるものなのかもしれない。醜く生きようとも、足跡がまごうことなき自分の足跡なのだが、今回の祈りは従来と違って、その足跡を認めがらない節がある。認めさえしなければ好転するような交渉事ならそれでもいいのかもしれない、でも違う。何一つ戻ってこないのだ。ならば、もう進むしかない。

でも、どこかでこうあって欲しかった未来を手放せずにいる。政治や出来事について目を遣れば、それが事態の悪化を招いていると思われることが散見される。無理もない、信じたくないのは至極まっとうなことだ。だが、その祈りは届かない。ならば、ならば、もう進むしかない。

でも、その祈りを捨てずに進もうと思う。

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