些細なことも、鍛えなければ衰える!

「ちょっとしたことで入院した高齢者が、あっという間に(足の筋力が衰えて歩けなくなり)寝たきりになる」という話をよく聞く。「そんな1週間程度の入院で?」と思うかもしれない。しかし、これは正真正銘の実話である。そのくらい人間の能力は鍛えないと低下するということだ。

実際に自分も似た体験がある。最寄りの駅の階段は何と140段あるのだが、毎日上っている時は問題ないのだが、土日を挟み、月曜出勤をする時は結構キツイ。足は筋肉だからなぁ。ジムでも行って鍛えないと、衰えるなぁ…と反省することになる。「筋肉」と認識できるものについては腑に落ちる。状況を自然に受け入れ、納得もしやすい。

ところがである。自分はクラシックの声楽をやっているのだが、喉を傷めて1か月ほど歌えない時期があった。それを乗り越え、声楽に復帰したその日、いくら発声練習をしても喉が思い通りに機能しない。いや、声帯を思い通りに動かせない。薄く引っ張ろうと思っても伸びず、くっつかない。伸びきってしまってたるんだゴムをピンと張ろうとしても無理なように、どう頑張っても声帯がいうことを効かない。慌てた自分はそれから毎日5分ずつ、10分ずつというふうにトレーニングを繰り返し、1か月程かかってようやく以前の自分の声帯を取り戻すことができた。毎日しゃべれているのだから、声帯なんて心臓同様に自分の意志とは関係なく、勝手に機能してくれているものだと思っていたら大間違いだった。これも「鍛えてこそ」なのである。

その余波は初見力にも及んだ。自分は幸いにして世に言うところの「絶対音感」があるため、初めての楽譜を見るとCDを流したように音が再生されていた。これは自分が努力して身に着けた能力ではなく、たまたまあった能力なので、「衰えるかもしれない可能性」については考えてみたこともなかった。ところが、この喉を傷めた1か月間、新しい楽譜を見て瞬時に歌う、という出来事から遠ざかった後に復帰してみると、頭の中のネットから音楽がダウンロードされてくる速度が遅くなったのである。まるで一昔前のインターネット接続のように…。焦った自分は、毎日1曲ずつ新しい楽譜を眺めてみることにした。するとどうだろう…。その再生スピードは、ほどなくして最新鋭のPC環境のようにサクサク接続されるまでに戻ったのである。

ついでに言うと、カーナビでも同じ現象が起きた。空間把握と地理にはそこそこ自信があり、野生の勘に頼れば道に迷うことは殆ど皆無だった自分は、カーナビを付けて1年も下頃、限りなく方向音痴に近づいていることに気が付いた。とっさに道が思いつかなかくなり、行ったことのある場所でさえ、カーナビなしには一瞬迷うようになってしまった。「野生の勘」と思えていたものですら、無意識に鍛えられた能力の一種だったようだ。結局、カーナビの使用を中止してみると、その勘は取り戻されつつある。

電車での外出も同じだ。スマホで検索した通りに乗り換えて出かけていると、突然の事故で急遽路線を変更しようとした時にさっぱり解決策を思いつかなくなる。瞬時にネットの情報が更新され、事故路線を避けた迂廻路を提示してくれればよいが、そこまですぐには対応していない。となると、自力で考えねばならないのだが、路線図を思い浮かべ、乗り入れをしていない駅間を徒歩でつなぎ、バスも利用して…などと考えようとしても、頭の中が真っ白で、何の画像もダウンロードされて来ない。並行して走っている路線すら思い浮かばず、事故の混乱と遅刻の恐怖で頭がグチャグチャになり、パソコンなら強制終了をしたい気分になる。

萩本欽一さんが、「認知症防止」と称して大学受験をした話題がマスコミをにぎわせたことは記憶に新しい。いかなる能力も、意識・無意識に関係なく「使う」ことによって保たれる。年齢とともに早くなる能力の下り坂のスピードに拮抗するためには、新たに「鍛える」ことの大切さに気付き、努力をしなければならないことを教えられた。このエピソードを単に「この年齢でチャレンジしたこと」の美談にするのではなく、我が身を振り返り、どんな小さな能力も保持できるように「鍛える」意識を持たねばと思った次第である。筋肉も脳ミソも、山勘や第六感に至るまで、全て「マッチョ化計画」を実施しなくては!

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