吾唯知足

寺の論語くじを引いて出てきた言葉。

「私は満足を知っているということ。知足とは、小欲などとともに修行の進んだ人が心がける重要な事柄の一つ」と解説に書かれている。

捕捉に「おなかいっぱいに食べないほうが健康に良いのと同じで、限りない欲望にストップをかけられれば、悩みは消えて、心は健康。真の豊かさで満たされるでしょう」とも。

そのお寺に併設されている庭園(お堂よりむしろこっちが本命のタイプ)でぼんやりしていると、まず鳥の声に意識が向き、次いで竹のさやめきに気が付き、笹の揺れと空の青さを観て、久しくなかった満足感で心が満たされた。

常日頃、このような感覚を欲して仕事にまい進しているものの、近年息苦しさの方が勝り、達成感とは縁遠くなっていたように思う。

息苦しさの原因は何か。人の求めに応じることで認められたいという欲求が強いことが、その軸にある。

人より早く、クオリティの高い成果物が出せる、と思われていることを聞いてしまってから、その評価を維持しなければ、という気持ちが焦燥感を生み、逆に仕事に集中できない状態に陥っている。

自由気ままに、かつ仕事欲が旺盛だった時期は、他人に評価されていなかった。反骨心を糧に動いていたが、評価されるようになると、反骨心がなくなり人の反応を気にする癖だけが残り、苦しさだけが残ったということかもしれない。

前段で仕事にまい進している、と書いたが、それは現状維持に躍起になっているということになってしまう。頑張ってはいるが、上を目指すのではなく苦しさに負けないように頑張っている、という後ろ向きな努力に変わっちゃったのだ。悲しい。

ここで「足るを知る」の線引きを考える。

鳥の声、笹のさやめき、空の青さ、自然がもたらしてくれるもので、これだけ満足感を得られるのだから、これ以上の仕事の栄達、および他人の評価を求めなくてもいいんじゃない? という考え方。

しかし、自然を楽しむ過程で、もっと良い景色を観たい、新鮮な音を味わいたい、という欲求は湧くと思う。それにはたぶん今と同様の苦しさを伴い、一方で自然から得られる満足感は目減りしていく・・・んじゃないかと思う(4~5年前に山登りにはまって、止めた時の理由がそういう感じだったような)

より良いものを漠然と求めた結果、逆に色あせて見えるようになるのは、求める過程で楽しさと苦しさの比率が(センスなり・感受性なりの限界で)逆転したときに、自分の中で採算が合わなくなるからだろうか。

それは良いものの質が、浅く広くに寄りすぎているから? 狭く深くであれば、また違う?

そういう意味では、他人の評価の追及は、浅く広くになりがちだと思う。人によって言うことが違うから、全部の要求に沿えば広くなるし、広くなれば深度も浅くなる。

足るを知るの定義を、自分のこだわり所を定め、それに集中することを目指す。そこに他人の評価は挟まない。

という形に決めてみよう。


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