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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(5)~交渉4日目・5日目・6日目~(1731文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


1854年1月26日
4回目となる日本とロシアの交渉が行われました。
さすがに4回目ともなると通商、国境設定に関する双方の意見は出尽くしたのか、プチャーチンは日本の意思決定の遅さについて疑念を口にしました。
 
「あなたがたは重要な問題については、京師(けいし=京都)に奏し(=奏上し)、さらには諸侯に諮問しなければならないと、ことあるごとに言われますが、これを口実として、我が国との交渉を引き延ばそうとされているのではないのですか?」
 
ロシアとの交渉はぶらかしを行う、というのが徳川幕府の意向なので、プチャーチンの指摘通りなのですが、肯定できない川路 聖謨かわじ としあきらは、それは心外ですとばかりに首を横に振ります。

「プチャーチン提督、これは我が国の法令・制度によるものなのです。我が国では重要事項を至急決めることはできません。貴国との交渉を引き延ばす口実にしているのではありません」

「遅くとも来年の三月、四月(旧暦)までに国境を決めなければ、我が国は樺太への植民事業を勧め、樺太全土はロシアのものとすることになりかねません」

「樺太のアニワ湾に、日本人が居留しているのは動かせない事実です。樺太全土がロシアのものであるなどと、我が国は決して認めません」

「ならば早急に国境設定を行うべきです。貴国の法令・制度が、貴国にとって不利な状況を招いているのです」

プチャーチンはそう警告を発しますが交渉はまとまらず、次いで、ロシアが上陸して遊歩できる地域について問題ないものの、長崎奉行所から厳しい規則がつけられており、これはロシア人を束縛するに等しいという非難がされたことから、それをうけて列席していた長崎奉行の水野筑後守が反論し、激論が起ころうとしましたが、川路 聖謨かわじ としあきらが、日も暮れてきたので、本日は散会としましょうと宣言し、事なきを得て交渉4日目は終了しました。

1854年1月28日
交渉5回目となるこの日、川路 聖謨かわじ としあきらはプチャーチンに提案をします。

「交渉を重ねること4回。両国の主張も出そろい、両国とも理解されていることと思われます。プチャーチン提督、今後は全権団に同行している勘定組頭・中村為弥なかむら ためやをロシア艦隊に派遣し、文書にて協議を行いたいのですが、いかがででしょうか」
 
この提案に、プチャーチンは同意しました。

川路 聖謨かわじ としあきらが、なぜこのような交渉方法に切り替えたのかについて、明確に理由を記された箇所を参考資料から見つけられなかったのですが、『長崎聞役日記』には、『川路 聖謨かわじ としあきらは27日から風邪に悩んでいた』という記述があります。

川路 聖謨かわじ としあきらが体調を崩したことが原因なのかもしれません。

1854年1月30日
勘定組頭・中村為弥なかむら ためやが通詞の森山栄之助もりやま えいのすけを伴って、ロシア艦船上で交渉が開始されます。
ここで、プチャーチンは8か条になる日露条約草案を提示します。
その内容を、以下に引用します。

その条約草案は、第一条 友好関係の設定、第二条 国境の画定、第三条 開港、海難救助、漂民引渡し、第四条 開港場における露国人の特権、第五条 貿易規則の制定、阿片貿易の禁止、第六条 領事の駐在と礼遇、第七条 領事裁判、第八条 最恵国待遇という内容である。
 
このうち肝腎の国境については千島列島においては択捉島、樺太においてはアニワ湾までを日本領土とし、その以北を露国領とすること。
また開港については長崎のほかに大阪・箱館の計三港を開くことが規定されていた。

「開国―日露国境交渉」著:和田秀樹 より

このプチャーチンの日露条約草案に対し、日本国全権団は条約締結を拒絶し、択捉島は日本領であり、樺太は実地調査の上、国境を設定すべきと出張しました。
プチャーチンの日露条約草案は突き返されました。

そして1854年2月4日
長崎における、プチャーチンと日本全権団との最後の交渉が、プチャーチンの希望により、ロシア艦パルラダ号で行われたのでした。
【続く】
*最終交渉日を1854年2月1日と記載しましたが、1854年2月2日の誤りのため訂正しました。


■参考資料

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