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【歴史のすみっこ話】漢字、危機一髪 箸休め編3 ~国語調査委員会の基本方針~[1578文字]

「漢字、危機一髪」の番外編その3です💦。

1902年(明治35年)に設置された日本初の、国家による国語に関する調査機関「国語調査委員会」1913年(大正2年)に活動を停止した後、1921年(大正10年)「臨時国語調査会」が発足し、1934年(昭和9年)「国語審議会」へと、日本の国語施策は引き継がれていくことになります。(現在は、2001年(平成13年)より文化審議会国語分科会

今回は、国語に関する日本初の調査機関、国語調査委員会の基本方針が、何であったかを、見ていきたいと思います。


1871年9月2日(明治4年7月18日)、文部省が設置されます。

1900年(明治33年)8月20日「小学校令」が改正されます。
この改正により、「読書」「作文」「習字」と別々にされていた科目が、「国語」に統一されます。

同じ年に、「国語調査会」が文部省に設置されます。
国語国字問題(日本語の表記方法、漢字、仮名遣い等)を中心とした「国語」の研究が主な目的でした。
当初のメンバーは、前島密(委員長)、上田万年(主査)ら7名でした。

1902年(明治35年)、国語調査会」は、「国語調査委員会」へと拡大発展していきます。
当初のメンバーは加藤弘之(委員長)、上田万年(主事および主査)、加納治五郎、前島密ら14名です。
この「国語調査委員会」は、文部省内の初めての委員会として位置づけされています。

この「国語調査委員会」が打ち出した基本方針は以下の通りです。

一 文字ハ音韻文字(フォノグラム)ヲ採用スルコト丶シ仮名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
 
二 文章ハ言文一致ヲ採用スルコト丶シ是二関スル調査ヲ為スコト
 
三 国語ノ音韻組織ヲ調査スルコト
 
四 方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト

文化庁のサイトに掲載されている『国語施策百年史』(文化庁:著)において、この基本方針についてこう記されています。

調査方針の一、二に掲げられた「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコト」と「言文一致ヲ採用スルコト」は、漢字廃止と文語文体排斥を意味し、国字・国文の在り方に大改革を与えようとするものである。
これについて、委員長の加藤弘之は、次に示すように、「この二件は確定したものであり、「この決定は将来動かさぬ」とまで断言している。
 
 将来準拠すべき調査の大方針を定めた・・・中略・・・以上の四件の中で確定して居る事項は、音韻文字を採用すること、文章は言文一致を採用することとの二件で、この決定は将来動かさぬのである。即ち、この方針によれば音韻文字を採用するのであるから、無論象形文字たる漢字は使用せぬことに定めたのである。・・・中略・・・文章は言文一致体を採用するから従来の如き日常の言語と懸け放れて居る文体は排斥するのである
 (加藤弘之「国語調査に就いて」、明治三五・七)
 
活動開始わずか三か月の間に、これらの大方針が確定したのは、同委員会が、当初から、こうした改良志向を有していたことを物語っていよう。
委員長の加藤自身を含め、委員の多数が国字改良・言文一致論者で占められていたことは、前節で指摘したとおりである。 

『国語施策百年史』(文化庁:著)

文部省内の初の委員会である「国語調査委員会」は、当初から漢字の廃止(それに代わるローマ字や仮名文字等の音韻文字の採用)を目的としていたのでした

最初に書いたように、この「国語調査委員会」1913年(大正2年)に活動を停止します。
 
しかし、『この基本項目の第一項が「国語一〇〇年」の日本語施策をずっと縛って来たのでした』(『国語一〇〇年』著:倉島長正より引用)と書かれているように、活動停止とともに、漢字の廃止方針は霧散したわけでは決してありませんでした。
それは戦後、国語審議会において表面化することになるのでした。


最後までおつきあい頂きありがとうございました。

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