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「足りない料理店」

N君はいつもより仕事を早く切り上げて、彼が入っている会員制の料理店へと急いだ。

駅の大通りから少し外れた路地の行き止まりにあるその料理店の存在を知る人はほんのわずかだ。

会費はとらないものの、会員からの紹介がないと入会できないルールになっており、しかも利用できるのは、会員1人につき、1年に1日だけなのだ。

N君にとっては今日が、その1年に1度の日であった。

飛び込むように料理店に駆け込んだN君は、質素だが綺麗に手入れが行き届いているテーブルに座わりメニューを手に取った。

幸いなことに他に客はいなかった。あまり多いと少し恥ずかしい。

N君はメニューを開いた。そこには、手書きでちょっと変わった料理名が書かれている。

『子供の頃に好きだったカレーライス』、「子供の頃に楽しみだったすき焼き』等々いろんなものに必ず『子供の頃に』がついているのだ。

N君は迷うことなく、あるものを注文した。

しばらくしてウェイターが銀のトレイに載せて持ってきたのは、小さなお皿に並べられたオハギだった。

今でも忘れた事はない。
まだ子供の頃の誕生日だった。
今日はお前の誕生日だからと、いつも仕事で家に居なかった母が仕事を休んでオハギを作ってくれたのだ。

それをみたN君の心には、悔しさと惨めさがこみあがって来た。

学校の友達は誕生日にはゲーム機や大きなぬいぐるみを買って貰って、自慢気に話す。
その輪の中にいるN君は子供心に疎外感を感じていた。

どうして僕だけがこんなに惨めな思いをしなくちゃいけないんだよ。

衝動的に手が動いた。
「こんなの欲しくない!」
差し出された皿を思いっきり手で払いのけた。
床に散らばる母が作ってくれたオハギたち。

怒るでも無く、悲しさと申し訳なさをたたえた母の顔を見るのがいたたまれなくなり、黙ってN君は家を飛び出して行った。

最低の誕生日だった。
母が悪いわけでは無い。
お人好しの父が連帯保証人になったことで背負った借金を返すために父も母も朝から晩まで働き詰めなのは子供のN君にもわかっていた。
許せなかったのは、母に八つ当たりをした自分自身だ。

行くあてもなくあちこちを歩いたN君が帰るところは築何十年も経っているアパートの一室。母が待っている家しかない。

遅かったね、心配してたのよ。

夜遅くに帰ったN君を母はそう言って抱きしめた。
その温もりを感じながら、ただN君は泣きじゃくるだけだった。

母があれからあちこちを探し、N氏の友達の家を訪ね歩いていた事は後になって知った。

子供の頃、未熟だった自分のせいで食べれなかったオハギを口にする。

母がどんな思いでつくったのかがオハギの味と一緒に心のひだに染み込んできた。

食べ終わるとN君は目頭を押さえた。
どうしてあの時、母に謝る事ができなかったのだろう。

「ご満足いただけましたか?『子供の頃に食べられなかったオハギ』は」

いつの間にいたのか、ウエイターが立っていた。

「ええ、とても美味しかったです」

N君はハンカチで目の周りを拭きながら言った。

「それはなによりでこざいます」

ウェイターは持っていた銀のトレイに空になった皿乗せた。

そしてテーブルの隅に置いてあった、レトロな黒電話をN君の前に置いた。

「ですが料理はまだ未完成でございます。お客様で、足りない料理を完成させてください」

そういってお辞儀をするとウェイターは立ち去った。

N君は黒電話の受話器をとり、ささやくように言った。

「もしもし。母さん」

返事はなかったが、かすかに聞こえる息遣いで分かった。

「オハギ、食べたよ。美味しかったよ」

「ごめんね、もっといいものをつくれなくて・・・・」

しばらくして、懐かしい母の申し訳なさそうな声がした。あの頃の若い声のままだ。

「そんなことないよ。わざわざ仕事を休んでくれてありがとう。もっと早く言えればよかったんだけど」

「お礼なんていわなくてもいいの。母親なんだから。当然のことじゃない」

「でも言わせてよ。母さん。ありがとう。そしてごちそうさま。それじゃあ、また話そう」

「体に気をつけてね。お前はいつも頑張りすぎるから」

それは母さんの方じゃないか。N君は心の中で呟く。

「うん、わかってる。じゃあまたね」

N君は受話器を置いた。電話ができるのは限られた時間だけなのだ。

客が御馳走様をいうことで料理は完成する。

お店を出る時、ドアを開けてくれたウェイターにN君は聞いてみた。

「どうして会えなくなってから、素直に自分の気持ちが言えるようになるんでしょうね」

「さあ。わたくしには分かりかねます。ですが人というものは、失ったとき、はじめてそれが自分にとって、どんなにかけがいのないものだったかという事に気づくものだと聞いたことがございます」

「そうかもしれませんね。また来年も来ます。伝えたいありがとうが、まだいっぱいありますから」

「お待ちしております」

ウエイターは頭を深々と下げた。

そこは、言えなかったご馳走様と感謝の言葉を、今はもう会えない人に伝えることができる会員制の「足りない料理店」。

その料理店に入ることができるのは、1年に1度、伝えたい相手が天に召された日だけだ。


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