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歴史フィクション・幕末Peace maker 【12】~騒乱04~(1102文字)

生麦事件文久2年8月21日(1862年 9月14日)]が起きた時、薩摩藩士、寺島宗則(てらしま むねのり)は日本にいなかった。欧州のロシアにいた。

幕府の文久遣欧使節(竹内遣欧使節ともいう)の一員として、翻訳方・通詞の役職で参加していたのだ。

同じ役職の者として、福沢諭吉箕作秋坪(みつくり しゅうへい)がいる。

また通弁の役職で参加している者は、福地源一郎、立広作、太田源三郎、森山栄之進がいる。[森山栄之進は後日、ロンドンで使節団と合流]
(通詞と通弁の違いは、会話の言葉の翻訳をするのが通詞、書面の言葉の翻訳をするが通弁、といったところでしょうか🤔)
※通弁は書面の翻訳をするとは限らないようです。

文久遣欧使節の目的は安政五年に結んだ欧米列強諸国との修好通商条約に定められた江戸・大坂・兵庫・新潟の開市開港時期延期のためである。

当初は日本国内で各国の公使と延期の交渉を開始したのだが、英国公使オールコックから、欧州に使節を派遣して各国政府首脳と直接協議することを提案され、それを受けてのことであった。

福沢諭吉と寺島宗則の両人は、英語に堪能というのが使節団メンバー抜擢の理由らしい。

寺島宗則は独学で英語を習得したようであった。
英書を読んで文法を学び、横浜で少しばかり談話をしたこともあったという。

文久遣欧使節は文久元年12月22日(1862年1月21日)に品川港を出立し、欧州の各国を巡り、開市開港時期延期の交渉を行い、文久2年12月11日(1863年1月30日)に芝浦(芝田町)の波止場に上陸する。

ちなみにフランスで使節団の一部は、ナポレオン三世に謁見している。
使節団の延長交渉の成果は別にして、寺島宗則にとっては西洋列強の文明や国家のかたちを知る得難い体験であったのではなかろうか。

寺島宗則らが生麦事件のことを知ったのは、帰国の途、フランスの老朽輸送船ウーロープ号の艦上であった。

1962年10月26日、寄港地で香港の新聞を買ったイギリスの海軍士官が
やってきて、生麦事件のことを伝えた。
(生麦事件だけでなく参勤交代の制度が緩和されたことも使節一行はこの時に知る)

「えー、日本を留守にしてる間に、エライことに・・・ (◎-◎;) 」

尚、寺島宗則が、生麦事件に対してどのような思いを抱いたかは不明である。

少なくとも、翌年、この事件によって、薩摩藩とイギリスが対立し、薩英戦争を行うことになり、自分(と五代友厚)が巻き込まれることになるとは、さすがに寺島宗則も想像しなかったに違いない。

【続く】


■参考文献

「幕末遣欧使節団」 
宮永孝(著)

「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新―「日本」はいかに議論されたか」
皆村 武一(著)

『「幕末」に殺された男』
宮澤真一(著)

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