[いだてん噺]アリス・ミリア夫人

近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンは、女性のオリンピック参加を、好ましいことと思ってはいなかった。
それはオリンピック大会で女性の参加が認められた種目数にあらわれている。

アテネで開催された第1回大会は女性の参加は認められていない。
パリでの第2回大会では、テニスとゴルフのみ参加が認められた。
セントルイスでの第3回大会はアーチェリーのみ、ロンドンの第4回大会ではテニス・アーチェリー・フィギュアスケートのみ、ストックホルムの第5回大会では、テニス・水泳・ダイビングのみが女性が参加できる種目となっている。

女性のオリンピック参加種目に制限が設けられていた理由のひとつに、『女性にふさわしくないとされる特定の競技・種目に、女性が参加することの根強い抵抗』があげられている。これに対し抗議の声を上げたのは女性であった。

1917年にフランスのアリス・ミリア夫人が、フランス女子スポーツ連盟(FFSF)を組織する。以後、各国で女子陸上競技連盟が作られる。

アリス・ミリア夫人はIOCや国際陸上競技連盟に対し、オリンピックの陸上競技を女性が参加できるように求めるが、拒否された。

それを受け、女性でも陸上競技ができることを示すため、アリス・ミリア夫人は1921年に国際女性スポーツ連盟(FSFI)を結成し、陸上競技種目のみの女子オリンピック大会を開催したのだった。

その後もアリス・ミリア夫人とIOCの交渉は続き、1928年にアムステルダムで開催される第9回オリンピック大会で、陸上競技5種目に女性が参加することとなった。
人見絹枝が800mの激走をしたオリンピック大会にあたる。
 
陸上競技5種目の女性参加については、女子オリンピック大会の名称を変え、オリンピックの文字を使わないことを条件に、オリンピック大会陸上種目に女性を参加させることを、アリス・ミリア夫人が勝ち取ったとする説もあれば、その逆に国際陸上競技連盟が先手を打って、試験的に陸上種目に女性の参加を認め、女子オリンピック大会の名称を変えさせたという説もある。

いずれにせよ、女子オリンピック大会(世界女子陸上競技大会と呼称変更)・オリンピック大会ともに、絹枝は競技者として大きく関わることになる。


■参考・引用資料
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『1936年ベルリン至急電』   鈴木明:著
●『オリンピック全大会』   武田薫:著
●『陸上競技百年』      織田幹雄:著
国際女子スポーツ連盟 - Wikipedia アリス・ミリア - Wikipedia



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