西暦で見た幕末・維新(16)~琉球王国への恫喝外交~

老中首座・阿部正弘あべ まさひろがペリーの再来航に備え、積極的に人材登用を行っていた一方―。
徳川幕府に開闢以来の混乱を持ち込んだ当の本人、ペリーと彼の率いる4隻の東インド艦隊は、1853年7月17日に江戸湾を退去したあと、一路琉球王国を目指していました。

当時の琉球王国の立場は少々複雑なものでした。

清国は周辺諸国と朝貢貿易【清国君主対し周辺諸国が「貢物」を献上し、清国君主はこれにこたえて「回賜(=返礼品)」を与えるという形の貿易】を
行っており、清国朝貢貿易を行う周辺諸国とは、君臣の関係となります。

琉球王国も清国朝貢貿易を行っており、清国皇帝から爵位を与えられています。
ただし、君臣関係を結んでいますが、清国が認めた領土内においては、自治や自立を認められており、独立国として存在する、いわゆる冊封体制下の国家でもありました。

清朝は福建省の省都、福州に琉球館を設けて、そこに清朝と琉球王国はそれぞれ役人を派遣し、ここを外交拠点として、年に一度、琉球王国は琉球の産物を貢物として献上し、清王朝は「回賜(=返礼品)」として鉄製道具や絹織物・陶器などを与える関係が長らく続いていました。

これだけならば、当時の琉球王国は清朝の冊封国のひとつという立場であったと説明が済むのですが、1609年に薩摩藩による琉球王国への派兵・支配により事態が複雑化します。

1602年に琉球王国の漂流船を救助し、徳川家康の命により、琉球王国へと送還したものの、薩摩藩を介して徳川家康に謝恩使を派遣するように要求しても琉球王国が送ろうとせず礼を失したことに起因し、幕府が薩摩藩に派兵を命じたといわれています。
(もっともこの理由は、派兵した日本側の史料によるもので、事実であるかは疑問が残りますが)

ともあれ、薩摩藩の派兵・支配により琉球王国の那覇には薩摩藩士が常駐する薩摩藩在藩奉行所が設置され、鹿児島にも琉球館が設置されることになります。
以後、琉球王国は実質的に薩摩藩の支配下に置かれることになりますが、清王朝は、このことを知る由もありませんでした。

こうして琉球王国は「清王朝の冊封国のひとつ」としての顔と、薩摩藩が支配する「徳川幕府体制に所属する王国」としての顔、二つの顔を持つことになります。

かねてから、未だイギリスが手を付けていない日本と琉球王国に、アメリカが自由にできる港を早急に確保すべきと主張していたペリーにとって、琉球王国との交渉は重要なものでした。

琉球王国に向かう途中、ペリー艦隊4隻のうち、帆船であるサトラガ号は、太平天国からアメリカ人商人を保護する目的で、上海に向かいました。
もう一隻の帆船プリマス号は奄美大島の調査を命じられ艦隊を離れます。

こうして、蒸気船であるサスケハナ号とミシシッピ号の2隻が、かって経験したことのない大嵐を受けながらも、琉球王国へと向かいます。

1853年7月24日
大嵐の中、琉球王国へとたどり着いたものの濃霧のためペリーたちは沖で待機を余儀なくされます。

1853年7月25日
那覇の港に入ったペリーたちは、琉球王国で待機を命じていたサプライ号は確認できたものの、後を追ってアメリカからやってくるはずのポーハタン号がまだ到着していないことを知ります。

サプライ号艦長からは、琉球王国の人々は丁寧にもてなしをしてくれているが、密偵が監視を続けているとの報告がペリーのもとに届きました。
 
ペリーは、那覇の長に対し、次の要求を突き付けました。

1 六〇〇トン分の石炭貯蔵所の提供
2 年間契約による家屋の賃貸
3 密偵によるアメリカ士官の監視の中止
4 アメリカ人が上陸して好きな物を購入できる自由な交易

黒船がみた幕末日本 ピーターブースワイリー

那覇の長は自分の一存で即答はできないので、琉球王国摂生の尚 質王しょうしつおうに要求を伝えると返答します。

1853年7月28日午後
ペリーと16名の士官は琉球王国に上陸しました。
那覇の公邸にて、摂生の尚 質王しょうしつおうからの返答が、中国語で読み上げられます。

琉球の必需品は日本と中国からの輸入に頼っている。もしアメリカが石炭の貯蔵所を作ると、問題が大きくなるであろう。市場での買い物については、それは店主の意向によるものであり、干渉はできない。
また尾行していたのは密偵ではなく、アメリカ人を助けたり島民からわずらわされることのないようにガイドしたりする者であるが、不快と思うのならやめさせると書かれていた。

黒船がみた幕末日本 ピーターブースワイリー

ペリーはこの回答に納得せず、不機嫌な表情を浮かべ、「回答が不十分なので受け取りを拒否する」と那覇の長に言いました。

続けて、「翌日の昼までに要求が受け入れられないのなら、部下200名を上陸させ、解決するまで王城を占拠するつもりだ」と宣言し、サスケハナ号に引き返しました。

それは、もはや外交というよりは、恫喝といっても過言ではないものでした。

ちなみにペリーはアメリカ本国への報告では『武力に訴えると摂政を脅したが、本気で暴力的手段を考えたわけではない』と書いてます。ですが、なりゆきによってはどうなっていたかは、歴史のifであり、誰にもわかりません。

1853年7月29日午前10時
那覇の長がサスケハナ号にやってきて、ペリーの要求全てを受け入れると回答しました。

具体的には、貯炭所はすぐに建設に着手、住居(寺)も賃料は月10ドルと提案した。尚、アメリカ人がマーケットに来ることを女性たちが嫌がるとの発言を受けて、希望する品目は公館にて販売することで双方が合意した。
ペリー艦隊出向の八月一日の朝、公邸でバザールが開かれた。
(略)
ペリーは「外国人との取引が、琉球の基本法に反して初めて行われ、公認された」事実に注目した。
(略)
一方、貯炭所もすぐに建設にかかり、骨組みができた。石炭以外の荷物の倉庫にも使うことができる。
琉球で一定の成果を上げたことにペリーは満足した。

開国史話 加藤祐三

那覇の港を後にしたペリーは香港に向かう途中、後からやってくる予定の1隻ヴァンダリア号と遭遇し、ポーハタン号はすでに香港に到着し、琉球王国に向かっているとの報告を受けます。

ペリーはヴァンダリア号に対し香港に戻る命令を出し、自身も香港へと急ぎます。
すでに琉球王国での目的を果たしているので、ポーハタン号が琉球に行くのは石炭の無駄でしかないからです。

しかし、結果的には入れ違いになり、ペリーはポーハタン号が持ってきたアメリカからの郵便物を受け取ることができず落胆にくれるのでした。

ともあれ、ペリーは中国で待機し、アメリカ本国からあと何隻来るかもわからない艦船を待つことにしました。
もとよりアメリカ本国に帰るつもりはありませんでした。
 
日本に渡した親書には、アメリカから日本まで18日間で来れると書いてありましたが、未だに安全な太平洋横断航路は見つかっておらず、ペリーは、7か月をかけて日本に来たのです。

来年の春、日本に再来航するためには、ペリーは本国から来る艦船を、中国で待つ以外に方法はなかったのです。


■引用・参考資料

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