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【ちょっと懐か史】歴史好きの調査力~1996年2月『森鴎外の旧居跡の場所、ソフトハウス会社の社員が推定』~

1996年2月20日の新聞記事にありました。

CD-ROMソフト『森鴎外アルバム』を制作する会社の社員の方が、1889年(明治22年)1月から約5か月間、森鴎外が住んだという根岸旧居跡がどこにあるか特定されていないことを知り、場所を推定したそうです。
(探し出しの調査自体は1994年頃に行ったみたいです)

森鴎外は陸軍省から派遣された留学生として1884年から1888年の期間、ドイツに留学しており、1888年に日本に帰国しています。
1889年は、鴎外が文筆活動に力を入れ始めた時期にあたります。

その時期に鴎外が住んでいた(旧居跡の住所)「金杉村百二十二番地」は、1891年の字名変更などで、現在の東京のどこに該当するか、ずっとわからないままだったそうです。

「金杉村百二十二番地」が現在の東京のどこに該当するのか、その調査の過程は、まるで推理小説のような趣がありました。

尚、記事には調査された会社員の方のお名前もかかれていましたが、一般の方の個人情報なので割愛し、調査の過程を記載させていただきます。

1.同時代の地図を調べる

王道の調査方法ですよね。
ところが、内務省が作成した当時の地図に、百二十二番地が記載されていなかったそうです。おーい、内務省~~ぉ😡。

2.視点を変えて調べてみる

ボクだったらここで諦めると思います。
だって、地図に番地書いてないんだもの~😡

しかし、この会社員の方はあきらめずに、調査する角度を変えます。
同時代に東京に在住し各分野で活躍された方々の記録を調べたのです。

するとどうでしょう。
日本画家、巨勢 小石(こせ しょうせき)が、森鴎外が住んだ「金杉村百二十二番地」と同じ場所に住んでいたことをつきとめました。
・・・巨勢 小石(こせ しょうせき)、誰ですか?😅

そこでひとつの仮説をたてます。
鴎外が引っ越した後に、巨勢 小石(こせ しょうせき)が引っ越してきて、そこに住んだのではないかと。
ふむ、ふむ。でもそれだけは「金杉村百二十二番地」が東京の何処かはわからないよなぁ🤔

3.手がかりを得る


巨勢 小石(こせ しょうせき)の画集の奥付けに、「金杉村百二十二番地」の住所が書かれています。
昔は、書籍の奥付け(巻末の著者・書名・発行者・印刷者・発行日などを記載したページ)に、著者が住んでいる住所を印刷していました。
昭和30年代くらいの本だと、まだ作者の住所の記載があったように思います。個人情報がダダ洩れ!😱

ところが、この奥付けの住所、同じ画集でも、複製版(第2版、第3版という意味)では奥付けの住所が違っていることに気づきます。
よく気が付いたなぁ。普通は初版だけ見たら、第2版以降なんて見ないよなぁ😯。

複製版では奥付の住所が変わっていることから、「金杉村百二十二番地」から地名の変更があったと推測しました。
変更された住所は「下谷区上根岸町八十八番地」でした。

4.さらに調査を深め、推定に至る。

「下谷区上根岸町八十八番地」「金杉村百二十二番地」を含む、5つの番地を統合した地名でした。範囲が広がってます。

そこで、「下谷区上根岸町八十八番地」に住んでいた、正岡子規の書簡を調べ、鴎外の旧居跡は「台東区根岸2丁目六番5号あたり」と推定したそうです。

こうして100年以上、明確にわかっていなかった根岸旧居跡が推定されました
新聞記事が出た段階では、まだ論文として書かれておらず、推定という表現が使われています。

はたして、この推定は正しかったのでしょうか?
論文発表後が気になりますね
😯。

現在、台東区のサイトの根岸二丁目町会のホームページには、以下のように書かれています。

明治20年代には、根岸在住の森鴎外、森田思軒、岡倉天心を中心に、饗庭皇村、幸田露伴、坪内逍遥らが集まり、根岸党と称する交遊がありました。

 明治25年正岡子規が当地に移住。子規は当時不治の病であった脊椎カリエスを患いながら俳句・短歌革新運動を行い、明治35年、35歳で亡くなるまで、病床には多くの文人が集まりました。根岸子規庵は子規終焉の地です。

https://www.city.taito.lg.jp/kurashi/kyodo/tyoukai/11tiku/iriya/negishi2cyome.html

■引用資料
読売新聞都民版1996年2月20日


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