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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(15)~船を造る~(965文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


1853年9月28日。「大船建造」について老中首座阿部正弘あべ まさひろが諮問を行いました。
ここでの大船とは大型の外洋船を意味します。
鎖国化の日本では徳川幕府によって、大型の外洋船を建造することも所有することも禁じられていました。

既に9月18日に、三奉行からは以下の上申が行われています。

西洋式の外洋船、すなわち下田丸、隼丸、日吉丸、千里丸の四隻を製造すべし、前二隻は御用船(官用の船)、後二隻は警備船にも使用、他に三〇間以上の軍艦と蒸気船の建造や操艦などの訓練体制も必要

「開国史話」

既に「大船建造」は解禁すべきというのが幕府内の雰囲気であったと思われます。

大目付からも解禁に賛成の意見が出されました。
林大学頭(林壮軒はやし そうけん)からも、「大船建造」は鎖国開始以前の時代では、日本で建造されており、今の情勢を見れば建造を解禁すべきと意見が出されます。
ただし、林大学頭は「大船建造」は解禁するが、海外渡航と海上貿易は禁止を続けるべきとしています。

1853年10月17日。「大船建造」解禁が決定されます。1635年の「大船建造」禁止令から、218年後のことでした。

1853年11月14日には外様大名にも「大船建造」解禁の通達が出されます。(小藩は無理に「大船建造」をしなくてもいいとしています)

薩摩藩は12隻の建造計画を1853年12月6日付で伺書を老中に提出し、老中はこれを決済します。

幕府もまた、浦賀に近代的造船所を建設し、洋式軍艦帆船「鳳凰丸」の建造を開始しました。
中心となったのは、ペリー来航時に対応した、浦賀奉行所の中島 三郎助なかじま さぶろうすけ香山栄左衛門かやま えいざえもんら同心らです。
尚、日本初の洋式軍艦帆船「鳳凰丸」は、佐賀藩からの情報提供を受けて、1854年5月に、わずか8か月という短期間で完成しています。

そして海防参与となった徳川 斉昭とくがわ なりあきも、幕命を受け、「旭日丸」建造のために隅田川河口に造船所の建設に着手します。


■参考文献
 「開国史話」
 加藤祐三(著)

「文明開化は長崎から」
広瀬 隆(著)
 
「幕末の近代国家・佐賀藩の歩み」
三好 章夫 (著)

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