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歴史フィクション・幕末Peacemaker 【01】~アーネスト・サトウ、中国語を学ぶ~(2593文字)

※ご注意※
これは薩英戦争・下関戦争前後の時代を舞台にした小説であり、『殆どフィクション』です。あらかじめご注意ください。


日本に赴任する通訳生としてイギリス外務省に採用されたアーネスト・メーソン・サトウ(以下サトウ)が、1861年11月4日にイギリスのサザンプトン港を出港し、中国の上海に着いたのは翌1862年1月16日であった。

速やかに日本行きの船に乗れるものと思っていたサトウだったが、訪れた上海のイギリス領事館で、思いもしなかった訓令を受けることになる。

「サトウ君、まずは、ここ上海で中国語をマスターしたまえ。日本に行くのは中国語をマスターした後だ。君の頑張りにもよるが、順調にいけば約2年後になるだろう」

「は?ジョーンズ主席補佐官、中国語をマスターしてからでないと日本に行けないということを、僕はイギリスを出立する時に全く聞いておりませんが  ヽ(ll゚д゚)ノ」

「うむ、情報の行き違いはよくあることだ、サトウ君」

上海のイギリス領事館主席補佐官であるジョーンズは頷く。

「これはオールコック駐日公使からの訓令だ。公使は日本政府との交渉に、日本語の話し言葉(口語)だけでなく書き言葉(文章)に精通した人材の育成が必要にして不可欠であると言われている」

「はぁ。でもどうしてそれが中国語をマスターすることにつながるんですか?」

「サトウ君、オールコック駐日公使はラッセル外相にこう報告されている」

よく使用される三千ないし四千の漢字を知っていれば、日本語の文章を読むことは容易になるし、それを知らないかぎり、いかに勤勉な通訳生であっても日本語の文章を読む手がかりはつかめない。
 
われわれのあいだに日本語の書物や文書を自由に読みこなせる人物が出てくれば(略)、われわれのまわりでじっさいになにがおこっているのかに関して、もはや日本人、この東洋民族の中でももっとも狡猾な人種のひとつである日本人の餌食にならなくてもすむであろう」
(オールコックよりラッセル外相への報告、1861年11月15日付)

「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄」(萩原延壽:著)より引用

「うわぁ。東洋民族の中でももっとも狡猾って、日本人になにかひどい事でもされたんですかね、オールコック公使は。つまり、中国語をマスターすることで、漢字を覚えられる。漢字が分かれば、日本語の文書は読めると・・・(・_・) 」

「うむ、その通りだ。呑み込みが早くて嬉しいよ、サトウ君」

「そして僕は今から2年間ぐらいかけて中国語を学ばなくてはならないと・・・(・_・) 」

「うむ、その通りだ。納得してくれて嬉しいよ、サトウ君」

「いえ、僕はこれっぽっちも納得してませんが (・_・) 」

サトウの本心はともかく、彼はオールコック公使の訓令に従い、中国人の教師から中国語を学び、街に出ては覚えた漢字を駆使して中国人との筆談を試みたりしたという。
 
3月25日、サトウは上海から北京のイギリス領事館へと移動し、中国語の習得に向けて専念した。
1843年6月30日生まれのサトウは、北京で19歳の誕生日を迎えた。
日本に行きたいという気持ちは依然としてあるものの、意外にも北京での生活に彼は満足を覚え始めていた。

7月29日。まだ一年以上は確実に続くものと思われた北京生活の終わりを、サトウは北京のイギリス領事館ウェード書記官から告げられたのだった。

「サトウ君。急だが日本へ出立してもらうことになった。速やかに準備してくれたまえ」

「は?ウェード書記官、ちょっと何言ってるのかわからないんですけど (・_・) 」

「私こそ、君がなぜ理解できないのか、理解に苦しむのだが。日本へ出立しろと言ってるのだよ」

「でも、僕はまだ中国語を完全にマスターしておりませんが ・・・(・_・) 」

「漢字は日本で勉強したまえ、サトウ君。いわゆるオンザジョブトレーニングだ」

「オールコック公使の訓令を全否定してるよ、この人。じゃあ初めから僕を日本に行かせたらよかったのに。困ったなぁ・・・(・_・) 」

「困った?なにか困りごとでもあるのかね?」

「はぁ。万里の長城観光ツアーに予約を入れてるので。日本に行くとなるとキャンセルしないとだけど、ツアー代金全額帰って来るかなぁ・・・(・_・) 」

「君が北京での生活をエンジョイしていたことは理解できたよ、サトウ君。しかし、イギリス国家への奉仕は、すべてに優先することを忘れずにいてくれたまえ」

「はい、わかりました。でも、どうして急に?(・_・) 」

「ニール代理駐日公使からの強い要請だ。それ以上の説明を君にする義務は、わたしにはないと思うが」

「はぁ・・・(・_・) 」

歴史家の萩原延壽はぎはら のぶとし氏は、この急な方針変更の原因を、1862年5月29日に起きた、第二次東禅寺事件【東禅寺の警備を担当していた藩のひとつである松本藩の藩士が、ニール代理駐日公使の殺害を試み、結果として警備のイギリス兵2人の殺害に至った事件】に求めている。

この事件で強い衝撃をうけたニールは、ひとりでも館員をという考えから、サトウたちを北京から呼びよせることを思いついたのではないだろうか。

「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄」(萩原延壽:著)より引用

「日本に行ったら、君の先輩にあたる通訳生のシーボルト君からも日本語を学ぶといい」

「シーボルト?はて、どこかで聞いたことがあるような・・・ (・_・) 」

「かって日本の長崎で医師をしていた、あのシーボルト博士の長男だ。シーボルト君はドイツ人だが、今はイギリス公使館で通訳として働いている。日本語はオールコック公使の折り紙付きだ。加えてオランダ語、フランス語、ドイツ語もできる」

「へぇー。それは心強い先輩ですね (・_・) 」

「ちなみに、年齢はサトウ君より三歳年下だから16歳になる」

「え~っ、まだ子供じゃないですか。年下の出来る先輩って、やりづらいなぁ (・_・;) 」

かくして9月2日、サトウは同僚の通訳生ロバートソンと共に日本に旅立ったのだった。
サトウが日本へ旅立った時期は、日本の年号でいえば文久二年にあたる。

幕末期の転換点ともいえる生麦事件が起きたのは、サトウが日本の横浜に着いた9月8日から、わずか6日後の1862年9月14日のことであった。

【続く】


■参考文献
『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』
萩原延壽(著)

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