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【歴史のすみっこ話】良い旅を、チャップリンさん~日本へ行こう~

来年、桜の季節に日本へ行くーー。

喜劇王チャールズ・チャップリンが、日本人秘書の高野虎市こうのとらいちそう告げたのは1926年の秋のことでした。

チャップリンは日本という国に憧れを持っていました。
ですが、高野虎市こうのとらいちという日本人を雇ったのは、それが理由ではありませんでした。逆なのです。

高野虎市こうのとらいちを雇ったあと、日本への憧れを強めて行ったのです。

チャップリンは1916年に、当初高野虎市こうのとらいち運転手として雇っています。

当時、アメリカでは排日運動が高まっていました。
ですが、チャップリンは、一切の人種的偏見を持っておらず、純粋に運転手として高野虎市こうのとらいちを雇用したのでした。

チャップリンが新車を購入したので運転手を探している、そんな話を聞いた高野虎市こうのとらいちは、採用面接を受けにチャップリンのもとを訪れます。

「きみ、車の運転ができるの?」
「はい」
「へぇ、すごいな。ぼくにはできないよ」

「チャップリン暗殺」 著:大野 裕之より引用抜粋

なんと面接はそれだけで終わったそうです。
高野虎市こうのとらいちは運転手として採用されました。

チャップリンが日本への憧れを強めたのは、秘書から小泉八雲の『怪談』を勧められ読んだのがきっかけなのだそうです。

実際にチャップリンが日本へとやって来たのは、チャップリンが言い出してから6年もの後、1932年5月14日のことでした。

翌日、五・一五事件が起きます。

当初、チャップリンも暗殺の標的となっていたのですが、来日スケジュールが読めず、暗殺は棚上げになったことと、チャップリンの気まぐれによって犬養首相の歓迎会を断ったことが幸いしました。

日本を立つ直前、ある(外国人?)新聞記者から質問されます。

「東洋においては戦争を感じたか」とー。

それに対してチャップリンはー。

「私は東洋で少しも感じなかった。ことに日本においては戦争気分と言うものを少しも見いだせずに終わった」と答えた。
「次の戦争が起こるかもしれないという世論があるが、これはできるだけ避けるべきであり、若い者を犠牲にすることは絶対に賛成しない」

「チャップリン暗殺」 著:大野 裕之より引用抜粋

時代はチャップリンの希望した未来と異なる歩みを進めていきます。

■引用・参考
 「チャップリン暗殺」 著:大野 裕之

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