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【歴史の断片】 「防空法」と「東京空爆」海野十三の予見(昭和12~19年)[1114文字]

1937年(昭和12年)10月1日、「防空法」施行。

当初制定の「防空法」の条文は、全部で二二カ条。現実の空襲を想定した撤去・避難や消防活動についての規定はなかった。
 
それでも、この法律制定によって、国民は防毒・救護活動・防空訓練への参加、設備資材や土地家屋の供用・使用・収用・灯火管制などを、はじめて法的に義務付けされた。
(略)
法案の趣旨説明では、一言たりとも「国民の生命を守るため」とは述べられていない。

そこに防空法の核心がある。つまり防空法は現実に予想される空襲から国民を守るための法律ではない。守るべきは都市であり、国土であり、国家体制である。

『検証 防空法:空襲下で禁じられた避難』著:水島 朝穂、 大前 治

1938年(昭和13年)ー。

後年、日本SFの父と呼ばれる探偵小説作家の海野十三(うんの じゅうざ)は『東京空爆』という軍事短編小説を書きあげます。

海野十三はこの作品を、講談社の人気大衆雑誌「キング」に持ち込みました。
「キング」編集部は作品タイトルを『敵機大襲来』と変えて、昭和13年6月号に掲載しました。
そして、ラジオ科学社が、タイトルをもとの『東京空爆』に戻し、単行本として出版します。

小説の内容は、ソ連空軍が東京空爆を試みたが・・・という話です。

小説内には、『日本の建築は、紙よりも燃えやすいのです。二トンか三トンの焼夷弾で二時間以内に完全に焼け落ちてしまいます』という登場人物の言葉がありました。

また、『或る書物に書かれていたように、「科学を理解することができず、科学の嫌いな日本の家庭人が、それ故にみずから招いた悲惨な最期」ーーがいよいよ近づいたのだ』という描写もありました。

小説の最後は以下のように締めくくられています。

油断は大敵だ。敵はいつまた第二回の東京空襲を決行しないともかぎらない。大空は開けっ放し同様である。雨具ならぬ防空装備をもたずして、いまや日本国民は一日たりとも安閑として暮らすことはできない現状にあるのだ。

『東京空爆』 著:海野十三 より引用

単行本のあとがきで、海野十三はこう書いています。

これは僕が特にわが国民に読んでいただきたい空の警告小説である。

しかし、この小説に目をつけた大本営海軍報道部第一課長の平出大佐は、昭和15年に海野十三を呼びつけ、どなりつけました。

帝都上空には敵機は一機も入れないのだ!

海野十三は、悔しくて夜も眠れなかったと言います。

昭和16年1月
海野十三は東京世田谷の自宅の庭に防空壕を作りました。
この年の12月、太平洋戦争がはじまります。

昭和19年6月15日
B29重爆撃機が、北九州にある八幡製鉄所を爆撃しました。
B29による日本への初めての空襲でした。

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