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歴史の断片-1941.12.8 AM7:18-PM9:00【2320文字】

※これは真実はどうであったか解りませんが、記録されている事実(と思われること)の断片を記載していくシリーズです。


81年前の1941年12月8日、ラジオから流れた『大本営発表』は、10本もありました。
今日、ドラマなどで開戦の日が描かれる時には省かれていますが、ここでは12月8日に流れた『大本営発表』を時系列に記述します。
多くの人たちはラジオを前にして、これらのニュースを聴いたと思います。

【1回目】1941.12.8 午前7時18分 大本営陸海軍部発表
帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【2回目】1941.12.8 午前10時40分 大本営陸軍部発表
我軍は本八日未明 戦闘状態に入るや機を失せず香港の攻撃を開始せり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【3回目】1941.12.8 午前11時50分 大本営陸海軍部発表
我軍は陸塊緊密なる協力の下に本八日未明 早朝マレーシア半島方面の奇襲上陸作戦を敢行し着々と戦果を拡張中なり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【4回目】1941.12.8 午後1時 大本営海軍部発表
一、帝国海軍は本八日未明 ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し決
  死的大空襲を敢行せり
二、帝国海軍は本八日未明 上海に於て英砲艦「ペトレル」を撃沈せり、米
  砲艦「ウエイキ」は同時刻我に降伏せり
三、帝国海軍は本八日未明
 新嘉坡(シンガポール)撃破し大なる戦果を収
  めたり
四、帝国海軍は本八日早朝「ダバオ」、「ウエーク」、「グアム」の敵軍施
  設を爆撃せり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【5回目】1941.12.8 午後1時50分 大本営陸海軍部発表
本日必要の区域に防空の実施を下令せられたり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【6回目】1941.12.8 午後5時 大本営陸軍部発表
我が陸軍飛行部隊は本八日早朝来、比島方面要衝に対し大挙空襲し甚大なる
損害を與
(あた)へたり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【7回目】1941.12.8 午後5時 大本営陸軍部発表
南支方面帝国陸軍飛行隊は八日早朝 香港北方の敵飛行隊を急襲し、同飛行
場にありし十四機中十二機を低空射撃を加へこれを炎上せしめたり、我に損
害なし

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【8回目】1941.12.8 午後8時45分 大本営海軍部発表
一、本八日早朝 帝国海軍航空部隊により決行されたるハワイ空襲において
  現在までに判明せる戦果左の如し
  戦艦二隻撃沈、戦艦四隻大破、大型巡洋艦約四隻大破、他に敵飛行機多
  数撃破せり、我飛行機の損害は軽微なり
二、わが潜水艦はホノルル沖において航空母艦一隻を撃沈させるものの如き
  もまだ確実ならず
三、本八日早朝 グアム島空襲において軍艦ペンギンを撃沈せり
四、本日敵国商船を捕獲せるもの数隻
五、本日全作戦において我戦艦損害なし

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【9回目】1941.12.8 午後9時 大本営陸海軍部発表
帝国陸海軍は緊密なる共同のもとに本八日午後 泰
(タイ)国に友好的に進駐を開始せり

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

【10回目】1941.12.8 午後9時 大本営陸軍部発表
帝国陸海軍航空部隊は本八日緊密なる協力のもとに比島敵航空兵力ならびに
主要飛行場を急襲し、イバにおいて四十機、クラーク・フィールドにおいて
五十乃至六十機を撃墜せり、わが方の損害二機

「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

この日から終戦の日まで、最も多く大本営発表がされたのは、この日、12月8日の10本でした。

この日を語っている、様々な作家たちの言葉が記録されています。

野口富士夫(作家、当時30歳)
私の頭脳はどうも他の人と廻転が違うらしい。アメリカと戦闘状態に入ればアメリカ映画はみられなくなるというのが私の考え方で、その日私が妻子をともなってみにいったのは三越新宿店の裏手にあった昭和館で、フィルムは『スミス 都へ行く』であった。

「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社(刊)

坂口安吾(作家、当時35歳)
僕はラヂオのある床屋をさがした。やがてニュースがある筈である。客は僕ひとり、頬ひげをあたっていると、大詔の奉読、つづいて東条首相の謹話があった。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げなければならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ

「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社(刊)

折口信夫(民俗学者、当時54歳)
宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた

「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社(刊)

金子光晴(詩人、当時45歳)
僕は、アメリカとの戦争が始まったとき、二、三の客を前にしながら、不覚にも慎みを忘れ、「ばかやろう!」と大声でラジオにどなった。

「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社(刊)

清沢洌(ジャーナリスト、当時51歳)
けさ開戦の知らせを聞いた時に、僕は自分たちの責任を感じた。
こういう事にならぬように僕達が努力をしなかったのが悪かった。

「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社(刊)


81年前。ある者は高揚し、ある者は後悔し、ある者は淡々と、ラジオから流れるニュースを受け止めていました。
この日から灯火管制が始まりました。


■参考・引用資料
「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社(刊)
「大本営発表は生きている」保阪正康(著)

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