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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(16) ~鳳凰丸~(1236文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


浦賀奉行所の中島 三郎助なかじま さぶろうすけ香山栄左衛門かやま えいざえもんらの与力・同心らの主導により8か月で完成させた鳳凰丸は、日本で最初の本格的洋式軍艦とされています。

短期間で完成された要因のひとつとして、1849年に来航してきたイギリスの軍艦マリーナ号をモデルにしていたことでした。

当時、マリーナ号に搭乗した日本人の通詞が、マリーナ号の構造を、イギリス側から聞き取っており、その情報を参考に作られていたのです。

1853年9月29日には、以下のように『鳳凰丸』建造のための就業規則が決められています。

①火の用心を心掛け、くわえ煙管は禁止する、②掛以外のものがみだり
に出入りすることを禁止し、やむを得ない用事などがある場合は会所に届け出て指示を仰ぐ、⓷諸職人・人足に腰札を渡し、製造場所を引き揚げるときに回収する、④建造場所での喧嘩口論は慎み、飲酒も一切禁止する、⑤始業・昼飯・夕飯・終業に際しては太鼓あるいは柏子木を打つ、⑥早朝から作業を始め、日が暮れて手元が見えなくなるまで続けるとされた。

『幕末の海軍 -明治維新への航跡-』神谷大介(著)

ペリーの再来航直前の時点で、8割、9割程度の完成度だったようで、ペリー再来航の対応ため、一時的に建造がストップしたともいわれています。
ペリーの再来航がもっと後であれば、鳳凰丸の完成はさらに早まっていたかもしれません。
尚、今に残る鳳凰丸の絵には、三本のマストと日の丸の旗が描かれています。

『幕末の海軍 -明治維新への航跡-』によると、老中首座・阿部正弘あべ まさひろは、『幕府が継続的に軍艦を建造していくか否かは「鳳凰」の試乗を得たうえで決定する』という意図をもっていたとしています。

1855年4月16日、幕閣による鳳凰丸の試乗が行われました。

乗船した幕閣は、老中からは阿部正弘あべ まさひろ久世広周くぜひろちか内藤 信親ないとうのぶちか、若年寄からは鳥居 忠挙とりい ただひら遠藤 胤統えんどう たねのり本庄道貫ほんじょうみちつら、大目付からは井戸 弘道いど ひろみち筒井 政憲つつい まさのり等々で、幕閣がいかに日本人の手による洋式軍艦『鳳凰丸』の性能に関心をもっていたかが伺えます。

鳳凰丸は約4キロの航海を行い、その間に空砲の試射などを行いました。

ただ試乗した幕閣らからの意見は、以下のように、やや手厳しいものでした。

江戸内海や浦賀の護衛用にはなるが、長距離輸送の性能には疑問符がつけられた(「浦賀資料」五)。海防だけではなく、長距離の海上輸送を担うことが軍艦に求められていたのである。

『幕末の海軍 -明治維新への航跡-』神谷大介(著)

■参考文献
 「幕末の海軍 -明治維新への航跡-」
 神谷大介(著)

 「浦賀奉行所」
 西川武臣(著)

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