歴史の断片-1936.7.25- ブラックパンサー脱走、帝都震撼ス(其の参・最終回=捕獲・トコロテン戦法=)2311文字

暗渠(下水路)の中に潜む黒豹を、いかにして生け捕りにするかーー。
協議の末、黒豹がいる場所から近くにあるマンホールの蓋を開けて猛獣用の檻をかぶせました。黒豹をそこから外に出ざるを得ないように追い込めば生け捕りが成功します。
ではどうやって黒豹を追い込むかーー。捜査隊の試行錯誤が始まります。

■サーチライトの光を浴びせる
 眩しい光を当てたら、たまらず逃げ出すのではないかーー。
 そう考えて、黒豹を発見したマンホールから強いサーチライトの光を浴びせました。
 しかし黒豹は怒りの咆哮を上げるだけで、全く動こうとしません。
 いたずらに黒豹を怒らせるだけの結果となりました。
 結果:サーチライトの光を浴びせる・・・失敗

割竹でとにかく突っつく
 上野動物園のボイラーマンが、決死の覚悟で地上から暗渠(下水路)を覗き込んみ、煙突掃除に使っていた割竹(時代劇などで罪人をたたく場面に出てくる、先がいくつも割れている円柱の竹のようなものと思われます)で、黒豹を、ひたすらところかまわず突っつきました。
 これで痛さに耐えかねて、檻の罠がある地上への出口に向かって逃げるだろうと思われたのですが、黒豹はますます怒り、割竹をバリバリとかみ砕きますが、一向に動きません。
 結果:割竹でとにかく突っつく・・・失敗

■火と煙であぶりだす
 動物は火を怖がることから、重油を浸したぼろ布を、棒の先に巻き火をつけて、それを暗渠(下水路)の中に差し込みました。
 近くのマンホールからは、黒煙がもうもうと噴き出します。
 ですが、黒豹は煙を浴びせられても、まったく動こうとしません。
 結果:火と煙であぶりだす・・・失敗

ホースで水をかける
 
火がダメなら水はどうだろうか、とばかりに水道からホースを使って黒豹に水を浴びせます。
 しかし、黒豹は怒ったように唸り声をあげるだけで、ピクリとも動く気配をみせませんでした。
 結果:ホースで水をかける・・・失敗

万策尽きた捜査隊は、最後の最後、奇策を思いつきます。
それは、トコロテン戦法。・・・ネーミングセンス!(ꐦ°᷄д°᷅)

トコロテンをつくる道具(天突き)をご存知でしょうか。
天突きにトコロテンを入れて押し出しすと、細長い長方形の麺状になったトコロテンが出てきますね。
つまり、黒豹を押し出そうということです。人力で!

黒豹の近く地面に穴をあけ、そこから暗渠(下水路)の大きさとほぼ同じくらいの板の盾を持った人が中に入り、そして黒豹に向って板の盾を押し出すというものです。
これなら、黒豹も押し出されて、たまらず罠のある空いたマンホールから地上に出ようとするだろうという考えです。

・・・いや、黒豹を押し出すって、その人、どんな怪力ですの?というか、大人しく押し出される前に板の盾に体当たりをかましてきません?(ꐦ°᷄д°᷅)

ツッコミどころの多い案ですが、他の方法は誰も思いつきません。
しかしこの案には致命的なところがひとつありました。
誰が板の盾を持って、暗渠(下水路)に入って黒豹を押し出す役目をするのかです。

命じられたのが、黒豹を割竹て突っついた上野動物園のボイラーマンでした。
実はこのボイラーマン、かって軍隊にいたころは、癖馬矯正大会で荒馬を乗り鎮めて1等賞をもらったことがあり、また草相撲ではしこ名を「源氏」といって大関を張っていました。
このことから、体格も性格もトコロテン戦法向きだと判断されたのでした。
(内心は辞退したかったのではないかと思います)

トコロテン戦法
 
最初に地面に開けた穴から入ってみると、黒豹まで約10間(約18メートル)も距離があり、やり直すことになりました。2回目に開けた穴は、黒豹から約3間(約5メートル半)の距離でした。
 まだ重油の煙が満ちている暗渠(下水路)の中を、黒豹に向って板の盾を押し付けるために進むボイラーマン。

当たり前といえば当たり前ですが、黒豹も黙って押されません。唸り声をあげて板の盾に二度三度と体をぶつけてきたと、ボイラーマンが語るのが新聞記事に掲載されています。
 しかし、ずっと何も食べておらず力が入らなかったのか、根負けした黒豹は抵抗を諦めて、ついに罠のあるマンホールの開いた出口から外に出ようとして、みごと罠にかかり檻の中に閉じ込められたのでした。
結果:トコロテン戦法・・・成功

時は午後5時35分。こうして黒豹脱走事件は幕を閉じたのでした。
この事件は「二・二六事件」、「阿部定事件」とともに、昭和11年の三大事件と言われましたが、いつしか人々の記憶から消えて行ったようです。
一過性の恐怖の記憶であったためでしょうか?。

黒豹はその後、1940年(昭和15年)5月12日に病気で亡くなります。
太平洋戦争が始まる1年半ほど前でした。

そして、黒豹が亡くなってから約3年後の1943年(昭和18年)8月17日から9月23日にわたり、東京都長官の命令に基づいて、上野動物園では猛獣たちの殺処分が開始されました。

クマ類九頭、ライオン三頭、トラ一頭、ヒョウ類七頭、ヘビ類二匹、野牛二頭、ゾウ三頭。
(『東京大空襲・戦災誌』第五巻からの引用)

猛獣の殺処分は上野動物園だけではありませんでした。

もし空襲によって動物園の檻が破壊され猛獣が市街地に出てきたら人命に関わることになる。
その大義名分に逆らえる人はいなかったのでしょう。

奇襲的なドーリットル空襲を除けば、まだ本格的な空襲が、日本に始まっていない時期に、動物園の猛獣たちは処分されたのでした。

1944年(昭和19年)。日本に本格的な空襲が行われ始め、多くの人命が失われていきます。

『歴史の断片-1936.7.25- ブラックパンサー脱走、帝都震撼ス』【完】


■参考。引用資料
 読売新聞 1936年7月26日朝刊・夕刊記事より

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